シンデレラってどんな話?

 一般のシンデレラの定義は「みすぼらしい女の子が美しくなって玉の輿に乗る」だろう。だが、この「シンデレラの環」に集めたシンデレラ話群は必ずしも全てそういう話ではない。では、ここに集めた話の共通点、”シンデレラ”と定義されるべき真の条件とはなんなのか?

 ――それは、”転生と豊穣の物語”である。

 シンデレラたち、あるいはその母は、転生を繰り返しては何度も姿を変えてたち現れてくる。その際には”魂”を現す鳥の他、木、果実、水、魚、そして生贄の有蹄の獣のモチーフが付きまとう。

 生命の木、そしてそこから流れ出す生命の水。シンデレラたちはそれを司る豊穣の女神のすえなのだ。

かまどと灰

 シンデレラたちは、大抵、かまどの火に関わっている。苛められ、火焚き番として働いて灰やすすにまみれていたと語られるのはお馴染みだが、王子が訪ねて来たときにかまどの中に隠れることもあるし、時には、自ら灰の中に寝転んでいる。

 どうして、彼女たちは灰にまみれ、かまどに隠れて再び現れるのだろうか。

 答えは簡単だ。燃え盛るかまどや暖炉、ペチカ、煮え立つ大鍋は、獄炎の燃え盛る冥界を暗喩している。シンデレラたちはその炎の管理者であり、死んで冥界に下っては再び帰ってくる者だ、と示唆されているのである。最初に『シンデレラたちは豊穣の女神のすえだ』と述べたが、また、彼女たちは冥界の女神の小分身でもある。豊穣の神と冥界の神は表裏一体、同じ神だ。

 何故、燃え盛るかまどは冥界なのか。それは燃える炎が生命を象徴しているからで、魂は冥界に入って新たな生命を得、再生すると考えられていたからである。冥界は死者の行くところなのだが、生命の生まれるところでもある。西欧には、死体の上に燃えるロウソクを通過させると起き上がる、という俗信がある。

 ドイツのヴェストファーレン地方には、東アジアの歌垣に相当する五月一日の祭礼、いわゆる五月祭メイ・デーの際、娘たちが焚き火を飛び越える儀式が行われ、この時靴の片方を落とす娘がいると、その娘は処女ではない、と言って囃し立てたそうだが、女性が火を飛び越える行為には、火の生命力を胎内に移す、という子宝祈願のまじないの意味があったものと推測する。日本の主に関東と長野県、他に福岡県や熊本県、新潟県などには、嫁入りの際、嫁が火を跨いで、あるいは踏み消して婚家に入る、火のついた薪で嫁の尻を叩く真似をする、などという儀式が行われていた。同様の習俗は韓国や中国北方諸民族でも見られる。

 

 "冥界下り"のモチーフは、[シンデレラ]本編ではかなり希薄になっているけれども、[善い娘と悪い娘]や[千匹皮]、[男性版シンデレラ]では、かなり色濃く現れている。苛められている継子は井戸の底や山奥や川の果てに出かけていって山姥に出会うし、父親のために家を出た娘は姿を獣や植物に変えて森の木のうろや聖木の上に潜む。若者は墓場に通って死者と話したり、森や地の果てに行って山姥や魔神と出会う。言わずもがなだが、森や井戸の底は冥界で、そこにいる山姥や魔神は冥界神である。それらに気に入られたり倒したりして、試練をクリアしてから現界に戻ると、財宝を得たり素晴らしい姿に転生して、幸せな結婚をするわけだ。

 この、冥界から戻って転生すると幸せな結婚が出来る、という点には、通過儀礼の観念が透かし見えている。

 かつて日本を含む世界中の子供たちが、十三〜十六歳前後になった頃「冥界に行って、また帰ってくる」という儀式を実際に受けていた。これは大人になるための通過儀礼の一つで、主に男子が受けるものだが、女子が受けることもある。大抵は体育会系合宿のノリで、成年式の一環として行われる。方法は地域によってさまざまで、焚き火であぶられたり、熱湯や火の粉をかけられたり、穴の中に丸裸で落とされて竹竿で叩かれたり、首絞めや殴打で気絶させられたり、薬で昏倒させられたりといった実際に肉体を痛めつけるものから、怪物の口を模した建物や穴を潜ったり、霊山に登ったり、森の中の隔離小屋でしばらく暮らす、という観念的なものもあった。

 「死んでから甦る」のは、「子供として死んで、大人として甦る」ということで、これを済ませば一人前、自由に恋愛して結婚できる権利が与えられた。だから、作法を守って冥界下りに成功した善い娘が幸せな結婚をし、対して失敗した悪い娘が結婚できなくなるのは、とても明確な暗示なのである。

 男性版シンデレラのひとつ[金髪の男]では、森や荒野――冥界から戻った主人公が、内臓で作った袋を頭に被り、皮膚病のハゲ頭を装って美しい金髪を隠し、花嫁にだけそれを見せるモチーフがあるが、これを、通過儀礼で実際に行われていた習俗に関連付ける説がある。大人になった証として髪型を変えるのは、昔の日本でも一般的に行われていたことだ。世界的にもそれは見られるが、頭髪は剃ったり焦がしたりするほか、特殊な帽子を被って隠さねばならなかった。アフリカのガムビアでは、新たに割礼を受けた者は二本の牛の角のついた帽子を被ったし、トルコでもターバンを被る。ソロモン群島では、思春期の少年は円錐形の帽子を被り続ける。これは毛髪を見せてはならない禁忌で、もしも帽子を脱いだ姿を女性が見たら、彼女は殺される。この帽子は結婚すると毛髪と共に取り去られる。つまるところ、通過儀礼を受けてから実際に大人として認められる――結婚するまでの間、若者は髪の毛を人に(特に女性に)見られてはならない、という思想があったらしいのだ。思うに、洋の東西を問わず俗を捨てた僧侶や尼僧が剃髪して無毛になるように、髪には第二次性徴における発毛、"性的魅力・精力"の象徴のようなイメージがあるからではないだろうか。

 冥界へ下ることは、しばしば竜や大魚に呑み込まれること、としても表される。(新しい時代になると、それらを退治すること、に変化する。)英雄や聖者が大魚に呑まれてまた出てくる伝承は世界中に見られるが、出てきた勇者が髪を失ってハゲになっていた、と語られることがあることを注意しておくべきである。例えば、ギリシア神話の英雄ヘラクレスは、トロイアの王女ヘシオネを怪魚から救うため、自ら怪物の喉に飛び込んで三日留まり、ハゲ頭になって戻ってきたと語られている。メラネシアのバドゥ島の伝承でも、ムトゥクという男が釣りの最中にサメに呑まれ、座礁したサメの腹を自ら切り裂いて出たとき、全身の毛が抜けていたと語られる。これらは、[金髪の男]で冥界から戻った若者が毛髪を隠してハゲを装っているのと、同じことを表しているのだと思われる。

 

 ところで、「魔法の馬」や「金のたてがみのはえた馬、金の毛の生えたブタ、金の角をもつシカ」では、イワンは馬の耳の穴を潜って凛々しく変身するが、これも「冥界に下る――怪物に呑み込まれる」ことの変形である。「青い雄牛」「のつづれのカーリ」「予言する牛とその主人」「コンジ・パッジ」などで牛の耳や尻の穴、角の中からご馳走を取り出すこと、「川に落とした片方の靴」で牛が食べた麻を糸にして排出することも、同じ意味である。牛や馬の体内は冥界であり、その中に入って、富を得て出てくるわけだ。「フェアとブラウンとトレンブリング」では、主人公は海に突き落とされて殺され、そのままズバリ、鯨の腹から吐き出されて蘇る。

 

 冥界を表す"燃え盛るかまど"は、"煮えたぎる大鍋"として表されることも多い。キリスト教化された時代では魔女の大鍋と呼ばれ忌避された、生贄を切り刻んで煮込み、再び再生させる大鍋である。

 「小町娘とあばた娘」や「タムとカム」などのその後のシンデレラ譚では、シンデレラの偽者は、シンデレラと競うか真似をしたつもりで煮立った大鍋に落ちて死ぬ。これは、シンデレラは冥界に下って(煮立った大鍋に入って、飛び越えて)再生の力を得ることが出来たが、偽者は失敗して蘇らなかった、ということを示している。

 「川に落とした片方の靴」「達稼と達侖」のように偽者のシンデレラが母親に臼で搗かれて死ぬもの、「米福・粟福」の、母親の引く臼に乗っていくうち田んぼまたは川(水)に落ちて死ぬ、というパターンも、これらに連なるものだろう。内部が中空になっている石の臼も、富を吐き出す冥界(塩吹き臼など)として表されることが多い。

灰まみれの尻

 英語”シンデレラ Cinderella”という名の意味が「灰かぶり」なのはご存知の通り。ところが、フランスのペローの話では「灰かぶり Cendrillon」と呼ぶのは一番優しい下の姉だけで、上の姉や継母は「灰まみれのお尻 Cucendron」と呼んでいた。

 西欧のシンデレラ話の主人公には、多くの場合「灰」を意味するあだ名がつけられている。ドイツのグリムのAschenputtel、スコットランドのAessiepattleやAshpit、デンマークのAskepotte、スウェーデンのAskepott。しかし、これらの単語の前半が「灰」を現すことははっきりしているが、後半のputtel、pattle、potteといった語が何を指すのかは長い間定かではなかった。

 スウェーデンのアンナ・ビルイッタ・ルース女史によれば、これはギリシアのキオス島で採取されたシンデレラの名前からはっきり知ることが出来るという。その名Σταχτοπουτταは「灰」と「女性器」の合成語で、大変露骨で侮蔑的な蔑称なのだそうだ。つまり、女性器を現すこの「プータ」という語が、意味を忘れられたままプッテル、パトル、ポットといった語となって灰かぶりたちの名に残りつづけたのだと。

 一方で、あまりに露骨なこの名を避けて「かまど猫 Hearth-Cat」という名が用いられ、(メス猫、という名を女性に与える場合、やはり性的に侮蔑したニュアンスがあるのはおわかりだと思う。)これがイタリアのバジーレの「灰だらけのメス猫 La Gatta Cenerentola」となり、簡略化してペローのCendrillonになり、イギリスのCinderellaになったというのだ。

 しかし、こういった直に性的な侮蔑語を投げかけられているのは西欧のシンデレラだけで、東洋のシンデレラには見られない。「灰」という単語が呼び名につくのすら「灰坊」くらいで、他には全く見られない。ただ、日本には主人公とその分身たるライバルの名を「紅皿・欠皿」としている話群があるが、”欠けた皿”には処女性の欠如のイメージがあることは付け加えておく。

 

 しかし、どうしてシンデレラたちは灰まみれの女性器、メス猫などと、身持ちの悪そうな蔑称で呼ばれるのだろうか。

 近東からエジプトにかけては、かつて神殿娼婦と呼ばれる女性たちがいた。彼女たちは寺院や神殿に属する巫女として、訪れた男性と関係を持つことを義務としていた。(一生に一度だけの地域もあれば、一定期間勤める地域もある。)

 現在のキリスト教の修道女や私たちの神道の巫女は、逆に、あらゆる男性との関係を絶たねばならぬように思われている。何故なら、修道女や巫女とは神の妻であり、それに独占される者だからである。正反対の行為を行っているかのようだが、実は神殿娼婦たちも同じ信仰の上に存在していて、訪れる男性を「夫たる神」に見たてて交わっていたものらしい。

 大地の女神は夫神と交わり受胎することにより、この世に豊穣をもたらす。――この信仰は世界に広く行き渡っていて、例えばギリシア神話の地母神デメテルは、イアシオンという猟師と三度鋤き返した畑で交わって一子プルトスを生み、その後、大地は何倍もの収穫を産出したとされる。夜に全裸の女性が畑を耕したり種をまいたりして豊穣を願う儀式も、フィンランドやエストニアで現実に行われていた。更に、この信仰にのっとったものか、祭りの際に既婚未婚を問わない男女の乱交が"神遊び"として許されることもあった。日本でも、『万葉集』に

人妻にも交はらむ あが妻にひと言問ことど

この山をうしはく神の 昔よりいさめぬ行事わざぞ 今日のみは めぐしもな見そ ことも咎むな

(人妻に私も交わろう、我が妻に他人も言い寄れ。この山を支配する神が昔から禁じない行事だ。今日だけは誰も咎め立てるな。)

とあって、年に一、二度(春〜正月か秋〜お盆)の歌垣(若い男女が山や丘に集まって歌い踊り伴侶を見つけるイベント)の際にそのような行為があったことが歌い残されているが、歌垣が古代で廃れた後も、もっと近代、明治末期ごろまで地域ごとに現実に行われていたのだ。

 「ホレおばさん」では、井戸の底の異界に燃え盛るパン焼きかまどがある。ホレおばさんは北欧の冥界の女王ヘルの零落した姿だとされる。善い娘はホレのパン焼きかまどの世話をするわけだが、かつてローマの神殿娼婦たちは「パンの婦人たち」と呼ばれ、彼女たちの性の狂宴はかまどの祭フォルカナリアと呼ばれた。キリスト教はこれを罪、不道徳として禁じたが、本来神殿娼婦たちは多産――豊穣そのものを体現していたのであって、快楽や淫蕩のためだけに存在していたのではなかった。

 女神の小分身たるシンデレラたちが、どうして性的な蔑称を与えられているのか。その答えは、これら神殿娼婦の習俗にあるように思う。女神は、豊穣を生み出す聖なる存在であると同時に、精力的に性交を行う俗な存在でもある。だから、その小分身たるシンデレラたちも、聖なる転生をして幸せな結婚をする反面、性的に侮蔑された名で呼ばれることになるのではないだろうか。

 

参考>> <眠り姫のあれこれ〜初夜権と囚われの姫>



 ところで、近年の雑学ブームの中、

「シンデレラ Cinderella は”灰まみれの Cinder エラ ella ”という意味で、つまりシンデレラの本名は”エラ”なんだ」

と得々と語っている商業本を複数見かける。

 確かに海外のシンデレラ二次創作文学――C.S.エヴァンス『シンデレラ』(C.S.Evans『Cinderella』)やファージョンの『ガラスのくつ』(Ereanor Farjeon『The Glass Silpper』)ではそういう設定になっている。

 だが、これは一種の語呂遊びではないのか。日本には「灰坊」という男性版シンデレラがあるが、これを「灰坊は”灰まみれの坊”という意味で、つまり彼の本名は”坊”なんだ」と言っているようなものではないか。

 辞書を引く限り、Cinderella の ella は女性指小辞であり、日本語で言うなら「灰まみれっ子」の「」の部分に相当する語で、名前ではない。

生命の木

 冬に枯れても春に芽吹き、人々の生活を様々に潤す植物は、満ち溢れる生命力やそのサイクルの象徴とされる。

 

揺れる木

 「灰かぶり」や「灰まみれのメス猫」では、母の墓に木が根付き、それに願うと金銀の衣装やアクセサリーが降ってくる。これと同じモチーフは、日本の「雁取り爺」や中国・韓国の【耕狗田】にもある。不思議な力を持つ犬によって爺(弟)は富を得るが、妬んだ隣の爺(兄)によって犬は殺されてしまう。その墓から天にも届く竹が生え、それを揺さぶると金銀財宝が降ってくるのだ。しかし隣の爺(兄)が真似ると瓦礫が降る。

 これは竹が天界の宝物蔵を突き破ったからだと説明されたりするが、本来は生命の木を揺さぶると宝が降る――生命の果実を落として手に入れるというイメージだったに相違ない。

 「葉限」で衣装を出してくれるのは魚の骨だが、祭に出かける継母が"果樹の番"を言いつけ、祭から戻って見ると葉限が果樹に抱きついて眠っているシーンがあり、木揺すりのモチーフの残滓を思わせる。日本の「米福・粟福」の類話のうち福岡県や長崎県のものでは、謎の老人や鳥が"シンデレラ"に呼びかけると、上から衣装の入った箱や行李、風呂敷包みが降ってくる。木も揺する描写も出てこないが、これも木揺すりモチーフの変形だろう。

 

女神と生命の果実

 このような、富を与えてくれる不思議な木は"生命の木"であり、死んだ母や犬の墓から生えることで分かるように、"死者の再生"を示す、冥界の女神に属するものである。

 冥界に不思議な果樹があって、その持ち主が女神である、という信仰は、世界中の様々な伝承で見ることが出来る。ギリシア神話では、西の果て黄昏の国などにあるという"黄金のリンゴ"は、女王神ヘラか愛の女神アフロディテの持ち物とされるし、北欧神話でも、青春の女神イドゥンが西の園に回春のリンゴの木を持っていた。ケルトでは女神モーガンが西の楽園アヴァロンを支配していたが、アヴァロンAvalonとはリンゴの国apple land、という意味だ。中国の伝承では西王母という女神が仙桃の園を持っているとされる。「ホレおばさん」や「若返りのリンゴと命の水」など、民話レベルになるともっと無数に例を見つけることが出来るだろう。実際の習俗としても、スカンジナビア人は再生の願いを込めてリンゴを入れた容器を墓に入れたし、クリスマスにはリンゴを口にくわえさせた豚の丸焼きを作った。このリンゴは来世において心臓になると考えられた。

 これらの果実は生命の果実であり、民話レベルでは単に病を癒したり若返らせる効果のものになるが、本来は"冥界の女神の再生の力"を象徴するものだと思われる。つまり、性交、死、出産の力である。女神が英雄に生命の果実を渡すとき、それは女神と英雄の聖なる結婚、英雄の死、英雄の神の世界への転生を意味している。

 

 この「女神が生命を表す果実を渡して夫を選ぶ」というモチーフは、時に変形したり逆転したりしながらも、様々な伝承に混ざりこみ、語られている。それは、シンデレラ系の伝承においても例外ではない。

 例えば、「もの言う馬」では、ズバリ、姫が結婚したい若者にリンゴを投げることで婿選びをしている。「かわいい子牛」ではまりを投げることになっているが、果実投げの変形だろう。「毛皮娘」のように男女が逆転していることもある。この果実(まり)投げのモチーフは、グリムの「蛙の王様」にも見られる。カエルは姫が池に落とした金のまりを拾ってやることで彼女の夫になる資格を得る。

 他にも、「一つ目、二つ目、三つ目」や「白い子羊」などで見られる"果実摘み"のテストも、女神の果実渡しの分かり易い変形である。不思議な木がその正当な所持者たる"シンデレラ"にだけ枝を下げて実を取らせ、実を渡された"王子"は彼女と結婚する。

 日本には果実摘みのモチーフは見当たらないように思えるが、実は「瓜子姫」の異伝のうち岡山県に伝わるものでは、殺された姫が埋められた床下から梨の木が生え、父母の「上がれ、下がれ」の声で自由に動くので、殿様が見に来て裕福になる、と語るものがある。姫の復活や殿様との結婚はないが、これも果実摘みのモチーフの一つと見ていいだろう。

 また、果実摘みテストの変形だと思われる"小鳥をとまらせたまま枝を取る"テストのモチーフが、日本の「米福・粟福」や「紅皿・欠皿」に見られる。主人公とその妹、どちらが花嫁に相応しいか、という時、梅の枝にスズメのとまったまま折り取ってきた者を嫁にする、と"王子"側が言う。妹はスズメのとまった枝を取るが、スズメは飛び去ってしまう。主人公はスズメのいない枝を折るが、スズメが自ら飛んできてとまる。

(あるいは、このテストは灰かぶりトレンブリングが肩に鳥をとまらせ続けているのと関連するのかもしれない。鳥をとまらせ続けることのできる人物は、神意(祖霊の加護)を得た聖人ということか。)

 

 ところで、「もの言う馬」には、庭師として城に勤める主人公が凛々しい正体を現して庭の果樹の枝を切るデモンストレーションをし、姫に見初められるエピソードがある。日本でも、「灰坊」の青森の異伝に、庭師になって屋敷に潜りこんだ主人公が庭の松の枝を折ると、それを見た屋敷の娘が恋煩いの床につく、と語っているものがある。

 果樹も常緑樹である松も、どちらも生命の木になぞらえられる木だ。女神の果樹(の枝)渡しのモチーフが逆転して歪み、果樹(の枝)を英雄が折り奪って女神を妻にした、と語るようになったものだろうか。

 

ブランコで遊ぶ娘たち

 「ラール大王と二人の姫」や「リンキタンとクソイ」には、女たちがブランコで遊び、その場で”シンデレラ”を殺してしまうエピソードが出てくる。

 ブランコの起源はギリシアのアイオーラ祭にあるといわれる。少女たちは木から垂らした縄につけた狭い板の上に立ち、体を揺さぶった。この祭の間、木には豊穣を祈願して人形や仮面が吊るされていた。現在の七夕の笹やクリスマス・ツリーのように。そして、この祭の縁起は、殺された父を見て松の木で首を吊って死んだ乙女エリゴネにあった。

 ブランコの儀式的利用は世界のいたるところで植物の再生と関連付けられていたという。ぶらぶら揺れるブランコや木に吊るされた人形は、縊死する生贄の代用なのだと解釈できる。木にぶら下げられた生贄は、タロットカードの「吊るされた男」にも関連する。”己を犠牲にして世に富をもたらす者”だ。

 インドネシアの「ハイヌヴェレ神話」では、椰子の木から生まれた豊穣の乙女・ハイヌヴェレは、祭りの晩、踊りの輪の中で村の人々に穴に突き落とされ、生き埋めにされて殺された。後に、バラバラにされた彼女の死体から人々の主食たる芋類が発生した。

 女たちのブランコを豊穣祈願の儀式とするなら、ハイヌヴェレが踊りの輪の中で殺されたのと同じく、”シンデレラ”がブランコで殺されたのもまた「祭」の一環で、もしかすると実際にそういう儀式――乙女たちがブランコをして、中の一人が殺されて木の生贄に捧げられる――が行われていたことがあったのではないかと思える。

魔法はどこから来るか

 【シンデレラ】系民話の白眉は、"シンデレラ"が魔法によって美しく変身する不思議さ、そして変身した姿で周囲を見返す痛快さではないだろうか。シンデレラをシンデレラ足らしめる魔法、これは一体どこから現れるものなのだろう。

 

死んだ母親

 一般に認識されているシンデレラの魔法は、「苛められている主人公のもとに、突然、魔法使いのおばあさんが訪ねてくる」という、ディズニーのアニメ映画のシチュエーションだろう。このおばあさんが何者なのか、なぜ主人公を助けてくれるのかは、映画では分からない。

 ところが、ディズニー映画の原作のひとつ「ガラスの靴のサンドリヨン」を読むと、魔法使いのおばあさんは"主人公の名付け親の仙女"だとはっきり書かれている。日本では、かつて十三歳前後で元服するとき、貴族士族の男児なら元服名を付けてくれる烏帽子親(元服親)が付いて、生涯、親代わり・後見人となってくれるものだったが、西欧では生まれたときや生後まもなく洗礼名を付けるときに名付け親が付いて、やはりその子を後見するものだった。サンドリヨンの実の母は亡くなっているが、彼女には母代わりの後見人がちゃんといて、彼女の成人(社交界デビュー)のための準備をしてくれていた、という設定なのである。(同じペローの「ロバの皮」でも、"シンデレラ"を助けるのは名付け親の仙女になっている。)

 とはいえ、これはペローが物語を合理化するために付け足した説明であろう。シンデレラ系類話を全体的に見ると、"シンデレラ"に魔法を与えるのは「死んだ母親(まれに父親)」本人の霊か化身であることが大半である。向こうから訪ねてくる場合もあれば、こちらから墓や森や山へ訪ねて行く場合もある。時に、"シンデレラ"は特定の場所で特殊な呪文を唱えるなどして、母の霊を冥界から呼び出す。

 どうして、死んだ母が魔法使いとして現れたり、その死骸が宝やご馳走に変わったりするのだろうか。勿論、そのような人情的な話は人に好まれるし説明しやすいということも大きいだろう。だが、物語の奥底にはもっと別の意味があるようにも思える。

 極端な話、"死んだ母"は祖母だの氏神様だのに入れ替えてしまってもいいのだと、私は思っている。要は、"シンデレラ"を助けてくれるのは母や祖母やそれ以前の先祖を含む、彼女の血に連なる偉大な霊、祖霊なのだからだ。

 母親は、死ぬことによって魔法の力を行使するようになる。それは、祖霊となって冥界の女神と同化したからだ。女神の持つ死と再生の力(冥界の富)で、死骸は宝に変わり、"シンデレラ"は小さなみすぼらしい子供から、美しい"大人の女性"に転生する。

 

石の中

 魔法使いは"祖霊"なので、時にははっきりとした肉親の姿ではない漠然とした近親者、見知らぬ女や男や山姥や仙人の姿で現れることもある。「灰まみれのメス猫」や「金の靴」では洞窟や木の枝の中から美しい妖精が現れるし、「木のつづれのカーリ」では崖の中から男が現れる。「月の顔」や「米福・粟福」では、井戸の底や山奥などで出会った山姥が魔法を授けてくれる。

 井戸の底の世界や山奥・森の中はこの世ならぬ世界であり、冥界であるが、同じように、木の上、洞窟の奥、岩や石の中もまた、冥界を意味している。霊は冥界から現れるものだからである。

 洞窟の奥や、開閉する岩の中に冥界があるという思想は、地底に冥界があるという思想を根本とするだろう。洞窟は通路であり、開閉する岩は門だ。その奥の冥界には富(再生の力、豊穣、結婚相手、財宝)が隠されている。

 冥界の入り口に開閉する岩門(開く山)があるというモチーフは、ギリシア神話にもインド神話にも、その他、世界各地の民話でも見ることが出来る。これが変形したのであろう、呪文で開閉する岩穴の中に宝が隠されている、という宝山のモチーフも、世界の伝承で多く見られる。『千夜一夜物語』のアリババと四十人の盗賊の「開け、ゴマ」の呪文で開閉する洞窟が最も知られているだろう。「ラオと魚」や「ヨニと楊の葉」でも、開閉する岩の中に豊かな異世界があったと語られている。

 アルメニアの伝説にこんなものがある。

 湖のほとりに割れ目のある岩がある。毎年 昇天節の夜に天からマナ(神の賜物の食べ物)が降ると、岩が割れ、馬に乗り一羽のカラスを伴ったメヘルという巨人が出てきてマナを集め、また岩に入る。割れ目は巨人の出入りの時だけ大きくなる。巨人は一年間、マナを食べて過す。岩の中には二本のろうそくが燃え、宇宙を表す一個の車輪が回りつづけている。これが止まった時が世界の終わりで、彼は自分の墓である岩から出て、世界の支配者になる。

 ここでは、岩が墓石であり、内部が冥界であることがはっきりと語られている。

 

 神話に現れる開閉する岩門は、大抵勝手に開いたり閉じたり打ち合っているもので、それをうまく潜り抜けられた者だけが冥界と現界を行き来することが出来る。対して、民話に現れる開閉する岩門は、大抵、普段は閉まっていて、なんらかの合図によってのみ開かれる。「ラオと魚」や「ヨニと楊の葉」では、歌か呪文を唱えると岩が開く。「木のつづれのカーリ」や「灰娘」や「魔法の馬」では、岩(墓石)を木の棒(杖)で叩くと岩が開く。この木の棒は、魔法の杖であり、それで物を叩くのは、生命の木の呪力を触れた物に移す意味を持っている。

 冥界への扉は、予め資格を有している者だけが岩を開くことが出来るのだ。これは、これらの主人公たちが霊と交霊できるシャーマン的な資質を持っていることを示唆していると言える。歌や音楽、呪文は、霊を呼び出す儀式でしばしば使われるものだから。思えば、[魚とシンデレラ]の話群で"シンデレラ"たちが愛する魚を呼び出すために歌を歌うのも同じことで、彼女たちは魚の姿をした霊を呼び出していたといえるのかもしれない。実際、「南の島のシンデレラ姫」では魚は洞窟の前の水盤に入れられているが、洞窟もまた冥界への通路を表す表象であり、魚が冥界から呼び出されるものであることを暗喩しているのではあるまいか。

 

 中国や日本、東南アジアには、石や石像の中から米が無限に噴き出す、馬や魚が出てくる、という伝承が見られるが、これも石の中に冥界があるという信仰を表すものだろう。

 

地の底

 開閉する岩門と同じことを表している表現に、"割れた大地に呑み込まれる"というものがある。

 死体は地面に埋められ、この世から消えていく。冥界が地底にあると考え、死ぬことを大地に呑まれるだとか地の底に沈むなどと表現するのは、ごく自然な思考の動きかと思う。

 ロシアの[千匹皮]系民話には、こんな話がある。

 邪悪な魔法使いの差し金で、ある男の亡母の指輪が合ってしまったカテリーナは、彼と結婚させられることになる。彼女は巡礼の老女達に助言され、結婚の当日、自室の四隅に操り人形クコルキを置いた。部屋の外から花婿が早く出て来いと催促するたび、人形は花嫁の声で「クク」と叫び、それに伴いカテリーナは床下に沈む。苛立った花婿がついに部屋の戸を破った時、部屋には人形だけが残っていて「クク、大地よ、開け。お嬢さん、お隠れ」と歌っていた。花婿は人形の首を斧で切って火中に投じた……。

 ウクライナに伝わるこの話の類話はこうなる。

 意に染まぬ結婚を強いられた娘は絶望し、亡母の墓に行って相談する。亡母が墓から出現し、するべきことを指図する。それに従って三枚の晴着と豚の皮を用意した娘は、三体の人形を自分を囲むように地に置く。人形は順番に「濡れた大地よ、開け。そして美しい乙女をお前の中に入れてやっておくれ」と叫び、三体目の叫びが終わると地が開いて、娘と人形は下界へと降りていく……。(この後の展開は標準型。豚の皮を着た娘は”お城”の下働きになり、後に晴着を着て現れて”王子”に見出される)

 また、南アフリカのズールー族の民話にも、こんなものがある。

 昔、山向こうの酋長が三人の子を持っていた。一番上の「数珠玉女」は遠くの酋長に嫁に行き、二番目はウルシワネという若者で、末はまだ子供の「小さな鷲娘ウントンビーヤパンシ」といった。

 ウルシワネは猟犬代わりにしようとヒョウの子を飼っていて、乳粥を与えて育てていた。「小さな鷲娘」はそのヒョウが恐ろしくてたまらなかった。ある日、ウルシワネは散歩に出かけて、その間にヒョウの子に冷ました乳粥を食べさせるように妹に命じた。しかし「小さな鷲娘」は熱いままの乳粥を食べさせたので、ヒョウの子はたちまち死んだ。帰ってこれを見た兄は激怒し、逃げる妹を刀を持って追いかけた。追いつかれそうになったとき、「小さな鷲娘」は叫んだ。

  大地よ大地、開いておくれ。さもないと今日が私の最期の日となる

 すると地面が開いた。「小さな鷲娘」が中に飛び込むと地面は元通り閉じたので、妹を見失った兄は仕方なく帰っていった。

 「小さな鷲娘」はトンネルを通って父の畑に出て、母に相談した。母は暫くは「小さな鷲娘」が赤ん坊の頃に嫁に行った姉「数珠玉女」の所に身を隠すように勧め、牛の背に乗せて、召使いの「犬の尻尾」に手綱を引かせた。ところが、二日目に二人で水浴びをしたとき、「犬の尻尾」はサッと「小さな鷲娘」の綺麗な服や装身具を身に着けて牛に乗ってしまい、「小さな鷲娘」が怒っても嘲るばかりだった。それで、そこからは「犬の尻尾」が「鷲娘」になり、「小さな鷲娘」が「子犬の尻尾」になってしまった。

 「子犬の尻尾」は姉の屋敷で、召使いのウダラナを手伝って小鳥を追い払う仕事をした。ところが、彼女は魔法の歌を知っていたので、石を投げなくても小鳥を追うことが出来るのだった。昼になると、「子犬の尻尾」は川へ水浴びに行った。ウダラナがこっそり覗いていると、身を清めた「子犬の尻尾」は真鍮の杖で地面を突いて、

  父さんも母さんも、私の持ち物も、みんな出ておいで

と唱えた。たちまち、父母と牛、一族に代々伝わる服と見事な装身具が現われた。「子犬の尻尾」は牛に乗って両脇を両親に守られて歌を唄い、それが済むと全ては再び地面に消えた。

 このことが酋長と「数珠玉女」に伝わり、「子犬の尻尾」は自分こそが本物の「小さな鷲娘」だと明かした。姉は「犬の尻尾」を罰そうとしたが「小さな鷲娘」はそれを止め、兄ウルシワネにあげる犬を持たせて村に送り返させた。これによってウルシワネも妹を許し、「小さな鷲娘」も間もなく家に帰ったという。(『南アフリカの民話 バーナ・アーダマ編・再話 掛川恭子訳 偕成社』 1982.)

※別説によれば、兄から逃げた「小さな鷲娘」は真鍮のような美しい体に黒土を塗って隠すが、ある時水浴びして、大地から現れた衣装を着ていたところをその地の酋長に見られ、彼の妻になったという。

 これらの話の場合、割れた大地の奥から霊が現れるのではなく、"シンデレラ"自身が地の底に下りていく。これは彼女自身の"死"を意味しているのでもあって、他の[千匹皮]系の類話で家を出た主人公が森や木の上に隠れることや、[善い娘と悪い娘]の主人公が継母に井戸の底や川下の果てや水車小屋に追いやられることと同じである。

 一度死んだ彼女は、"王子"に見出されることによって再生し、試練を成し遂げた成人と認められて、結婚の資格を得る。

 

喋る人形

 ところで、先に紹介したロシアやウクライナの話で、語りかけると人形が喋り、主人公の身代わりとなって婚約者に返事をし、主人公を地の底に逃がしてくれるくだりは、かなり独特な感じで奇妙である。

 ロシアの「うるわしのワシリーサ」(『ロシアのむかし話<1、2>』 金光せつ編訳 偕成社文庫 1991.)にも、母を亡くして継母に苛められている主人公が人形に語りかけて助けてもらうエピソードが出てくる。

 死ぬ前に、母親はワシリーサを枕元に呼ぶと、布団の下からお人形を取り出して、こう言いました。

「ワシリーサ、お母さんの言葉をよく覚えておおき。お母さんはもう死にます。お前が幸せになるように祝福して、ほら、このお人形を遺していきますからね。いつも肌身離さず持って、大切にするんですよ。そして誰にも見せないようにね。でも、何か困ったことが起きたら、お人形にご馳走して相談なさい。お人形はお腹がいっぱいになると、きっとあなたを助ける方法を見つけてくれるでしょう」

 その後、継母に重労働を命じられても、ワシリーサが真夜中の物置部屋で自分の食事の一番いいところを人形に食べさせると、人形の目は二本のロウソクのように輝きだし、ワシリーサを慰めたり知恵を授けたりし、どんなキツい仕事もその晩のうちに成し遂げてくれるのだった。

 これは、呪術である。人形は依り代であって、そこに死んだ母の魂が宿っているに違いない。食事を与えるのは、例えば仏壇に供えるお仏飯と同じ、死者への供物なのだろう。現実にも、シベリア諸民族や中国、アフリカのエメイ族において、死者をかたどった人形を作り、それに食事を与えたり寝かせたりする習俗があった。その他の民族においても、人形を死者の魂の依り代とみなして呪術を行うことは、そう珍しくない観念ではないだろうか。

※「白雪姫」の註内で紹介しているイタリアの「奴隷娘」にも、供え物は与えないものの、同様のモチーフが現れている。

 

黄金の枝

 「灰まみれのメス猫」や「塩のように好き」、グリムの「灰かぶり」の決定版では、娘が父に木の枝を土産として要求し、その木の枝が魔法で衣装や宝を出してくれる。

 一見つまらない方を選択し、しかしそれが最も価値がある、というモチーフは、「貧しい母親と三人の娘」のように、仕事の報酬に現金よりも一本の鞭やおがくずの詰まった袋の方を選ぶ、という形で現れたり、「舌切り雀」のように、お土産に大きな箱よりも小さな箱の方を選ぶという形で現れる。姉たちが高価なドレスやアクセサリを望んでいるとき、"シンデレラ"だけが「枝」を要求するのも、同様のニュアンスを含むモチーフといえる。

 このモチーフは、また、【美女と野獣】系の話群の導入としても頻繁に現れる。しかし、ここでは末娘の望む「一本のバラ」は(真冬なので)ドレスや宝石よりもずっと手に入れにくいものになっており、類話によっては"りんりん鳴る枝"や"跳ね踊る ししどんぐり"など、最初から非常に手に入れにくい、特異なものとして提示される。

 鳴る枝や踊る果実は、明らかにこの世のものではない。これは、末娘の望む枝または果実が冥界に属するもの、生命の木の枝や果実であることを示しているのである。それは、「塩のように好き」では"洞窟の前の木の枝"が、「灰まみれのメス猫」では"洞窟の妖精がくれる金の枝"が土産とされている点にも示されている。先に述べたように、洞窟は冥界を表しているからだ。

 

 ギリシア・ローマ神話の中に、ローマ建国の祖アイネイアスが冥界めぐりをするエピソードがある。彼は巫女シビュレーに導かれて洞窟から冥界に下るのだが、この時、巫女の指示で森から黄金の枝(ヤドリギ)を折り取って持参する。これを手に入れるのも一つの難題であり、枝のありかまでは彼の母である女神アフロディテの二羽のハトが案内した。この枝は冥界の女王ベルセポネへの贈り物とされ、冥界の渡し守カロンに見せて先へ進むために必要な、いわばパスポートであった。

 黄金の枝の"黄金"は太陽を象徴する色で、太陽の死と再生の力を宿すことを示唆している。即ち、生命の木の枝だ。実際、ジプシーの伝承には、死者を甦らせる太陽の樹の枝が現れる。

 アイネイアスを冥界に案内するとき、巫女シビュレーは言った。

冥界アオルノスへ下り行くのは、いとも容易たやすい。冥王プルートーンが門は昼夜を問わず開かれておる。だが、その歩みを返し、現界に戻り来たること、これこそが苦業、至難のわざなのじゃ」

 冥界から無事に戻る――つまり、死んで甦ること。このためにこそ、黄金の枝は必要だったのである。

 

 生命の木の枝を持つ者は、再生の力を使う冥界の眷属だ。だからこそ、アイネイアスは冥界に自由に出入りすることを許された。同様に、生命の木の枝を手に入れ、その魔法によって自らを美しく変身させる"シンデレラ"たちも冥界の眷属であり、彼女たちの使う魔法は冥界の転生の力であると、ここでも結論付けることができる。

 

 このように、シンデレラの魔法は冥界から、死者(祖霊)の手によって運ばれてくる。

課せられる難題

 "冥界下り"以外にも、シンデレラたちには様々な試練が課せられる。これを単に継母や姉妹たちの意地悪、と見て読み流してしまえばそれだけなのだが、一つ一つに意味を見出すことも出来る。

 例えば、最も多く目にする「大量の豆や穀物を選り分ける」という難題。困っていると鳥や虫が来て選り分けてくれる。これはシンデレラ系に限らず多くの民話で見かけるモチーフだが、それらは難題婿や難題嫁の試練――結婚するために婚約者の親から課せられるテストとして現れている点に注意しなければならないだろう。

 先に、"冥界下り"は成年の通過儀礼を表していると述べたが、同じく成年の儀式として、一人で畑を耕すなどのキツく責任ある仕事をさせ、成し遂げることにより大人として認める、という習俗も現実にあったという。つまり、この「穀物を選り分ける」だの、その変形だろう「大量の穀物を搗いて精製する」だの、あるいは「大量の糸を紡ぐ」という"キツい仕事"の難題は、本来は、一人前の大人として認められるか、というテストだったのだと考えることが出来る。

(次に多く見かける「ざるで水を汲む、穴の開いた器に水を溜める」という難題は、恐らく冥界での不毛の仕事を表していると思われるので、"冥界下り"の暗喩になるだろう。<三つの愛のオレンジのあれこれ〜冥界への旅>で触れるので、ここでは語らない。)

 

 ところで、個人的に謎めいていると感じていた難題に、「器を涙で満たす」というものがある。例えば「月の顔」では、涙の代わりに塩水を入れて誤魔化しているが……。これはいったい何なのか? 何の意味があるのか?

 けれども、シンデレラ系の類話をいろいろ見ているうちに、自然に疑問は氷解した。「ヤン・パとヤン・ラン」では、親が留守の間、竹筒に涙を溜めよ、という仕事が課せられる。そして「灰かぶり」では、いっぱいの涙が母の墓に生えた木を育てる。

 器いっぱいの涙は親を想って流したものなのだ。つまり、器を涙で満たす難題は、主人公がいかに情が深いかを試しているのであった。

 『ペンタメローネ』の枠物語には、王子の墓に置かれている鉢いっぱいに涙を溜めることの出来た娘が、王子を死から蘇らせることが出来る、というエピソードが現れている。また、西欧の民話の、冥界に去ってしまった異類の夫を求めてさまよう妻のモチーフでは、「鉄の靴を七足履き潰すまで探し回らねばならない」というものの他に、「七つのビンを涙で満たさねばならない」という条件が付くことがある。死者のために泣いて泣いて泣き尽くしたとき、死者が冥界から立ち戻る奇跡が起こるのだろう。

ガラスの靴

 シンデレラの落とす「ガラスの靴」は最も有名なモチーフだが、世界中の伝承を見ていくと、落とされる靴がガラス製であることは、まず無い。大抵は「金糸の縫い取りの靴」か「金の靴」だ。

 ガラスの靴はディズニー映画の原作となった「サンドリヨン」を書いたペローの創作だとされる。「りすの毛皮」を意味する言葉の誤字、とする説もあるけれど、他の伝承に毛皮の靴が出ることもないし、あまり正しいようには思えない。ガラスは、民話の世界ではガラス山やガラスの柩など、"冥界・死と再生"に関わる幻想的なアイテムとして多く登場する。恐らくは、ペローはこのイメージの延長で「ガラスの靴」を創出したのだと思う。

 同様に、カボチャの馬車もペローの創作である。他の類話では、馬車や馬が魔法で(冥界から)現れることはあっても、カボチャやねずみなどの別の物質がそれらに変化する、といった描写はまったく見られない。

 

 八丈島の伝説によると、昔、男女は別々の島に住んで年に一度逢瀬をしたが、女たちは浜辺に手作りの草履を並べ、くじ引きのように、自分の作った草履を履いた男を夫にしたという。沖縄の民話でも、自分が恋人に贈った草履が洞窟の入口に脱いであるのを見て、男が自分の妹と知らず契りを結んでしまう話がある。結婚と「女の履物」には何か関わりがあるらしい。西欧やアジアのあちこちでは、女が結婚相手に自分の靴を、あるいは男が結婚相手に女の靴を贈る風習があったそうだ。

 何故靴を贈るのだろう? 少しうがった考え方になるが、靴は足を入れる容器であり、足はしばしば男性器の象徴とされるので、つまり靴は女性器を暗喩するもの、女が恋人に自分の靴を贈るのは、「私の身を捧げます」という意味がある、という考察もある。

 シンデレラたちの靴は多くの物語で”小さい”と書かれている。例えば中国の「葉限」では、靴が”小さく、羽のように軽かった”と語られるが、そこにも靴=女性器のニュアンスがあるように思える。中国では長く”小さな足”は良家へ嫁入りするための条件だった。女性たちは子供の頃から足を布で縛り上げ、小さく育てたものだった。これを纏足という。こうすることによって足首、ひいては腰の筋肉を鍛え、”締まりをよくした”のである。現代の女たちが足首を細くするため爪先立ったりハイヒールを履くのと同じ理屈だ。下世話な話だが、小さな足のシンデレラは大層”具合がよかった”ことだろうし、また、小さな靴はそれを想像させたことだろう。

 

 西欧のシンデレラ譚では、靴は王子の前から逃げる際に落としていくのが基本である。しかしアジアでは、靴は王子の知らない場所で落とされ、後にそれを王子が拾う。王子は実物のシンデレラに会ったことは無いのだが、靴を見て「どんなに素晴らしい女性だろう」と恋焦がれて彼女を探し、妻にする。

 この、女が落としたり無くしたりした物を高貴な男が拾い、それを手がかりに女を見出す「失われて再び見つけ出されたもの」のモチーフは、東洋で発祥し、特に(その、因縁の不思議を語る部分が)好まれているものらしい。「ロドピスの靴」や「タムとカム」「ヤン・パとヤン・ラン」のように靴が鳥に運ばれるもの、「タロイェラと彼の娘」や「二人の兄弟の話」のように体に塗っていた香料や髪の毛が川を流れるものの他、櫛が男のもとに運ばれたりする。

 注意すべきは、この時、必ず女は水浴びをしている、という点だ。川で水浴びしていて髪や香油が流されるのは当然のシチュエーションだが、鳥が靴や髪を運んでいく際にも、何故か女は水浴びをしている。恐らくは女が川で水浴びするのが原型で、その変形の"鳥が運ぶバージョン"でも女の水浴びのシチュエーションが残ったのだろう。「タムとカム」「ヤン・パとヤン・ラン」では、水浴びをしないものの、何故か「靴が濡れたので乾かした」となっていて、本来は水浴びの要素があったのだろうと思わせる。

 "鳥が運ぶバージョン"の更に変形であろうものに、風が女の肖像画を運んでいく、というものもある。これは日本の「絵姿女房」で見られるものだが、西欧では風が運ぶ要素すら忘れ去られて、「小さい野鴨」や「忠臣ヨハネス」のように、部屋に隠されていた肖像画を男が垣間見て、恋焦がれる。

 もっとも、こうして失ったものから見出されて幸福な結婚が出来るのかは場合による。時には、既に結婚しているのに、彼女のことを知った王に強引に奪い去られていくこともあるのだ。この場合、夫がいかにして妻を取り戻すか(「絵姿女房」)、あるいは夫を捨てた妻に復讐するか(「二人の兄弟の話」)、が物語の主題になる。

夜中の十二時

 ディズニー映画で採用されたため、「シンデレラ」といえば時間制限、夜中の十二時を過ぎると魔法が解けるものだ、と一般には認識されていることだろう。十二時の鐘が鳴り響く間に逃げねばならない制限、魔法の幻想性は物語に緊張を与え、良い効果を与えていると思う。

 ところが、時間制限付きの魔法は、シンデレラ系類話全体から見るとかなり珍しく、この【シンデレラの環】に集めた例話中では「ガラスの靴のサンドリヨン」「灰かぶり」「ズーニー族のシンデレラ」の三例しかない。

 この時間制限に関しては、ガラスの靴・カボチャの馬車と同様に「サンドリヨン」の作者のペローの作為だとされ、つまり、夜の舞踏会に女の子が出かけて、夜中の十二時を過ぎても帰らないのは行儀が良くない、十二時には帰るべきである、という道徳的・親の願望としての意味が込められているのだとされている。

 私自身、それに異論は無いのだが、もしもこのモチーフが完全なペローの創作でなく、別の民話伝承からでも持ち込んできた、想を得たモチーフであるならば、あるいは別の意味を見出すことも可能ではないか、と考えている。というのも、多くの民話の中には「夜中の十二時で消える魔法」のモチーフを持つものが存在しているからである。

 たとえば、[命の水]系の民話では、王子が生命の水や果実を取りに魔法の城に侵入するのだが、この城の中にいられる時間には制限があり、夜中の十二時を過ぎると、城は海の底に沈むか、その重い鉄の扉を閉じるかしてしまう。

 これらの魔法の城は冥界を表している。冥界――魔に属するものは、一定の時間しかこの世に出現していられない、という考え方である。そして、"シンデレラ"の魔法も冥界から出てきた力なのだ。

 しかし、何故夜中の十二時なのだろう? 私にはよく分からないが、夜中の十二時に合わせ鏡をすると悪魔が出てくるという俗信があるように、日付の切り替わる境界であるこの時間には、何か魔的なものが消えるか現れるかするに相応しい、ということなのかもしれない。

妻たちの葛藤

 "シンデレラ"は嫉妬する者に苛められ、害される。この苛め役は大体四タイプに分類できる。

 まずは、継母。"シンデレラ"が子供(未婚)の場合に活躍し、(a.穀物の選り分けや大量の糸紡ぎなどの(一人前になるための)難題を課す。 b.食料を与えずに放置し、餓死させようとする。 c.自分の娘のために"シンデレラ"の縁談を妨害しようとする。)のどれかの行動をとる。

 次は、。継母の連れ子もしくは"シンデレラ"の異母妹で、継母の尻馬に乗って"シンデレラ"を苛めるか、その苦境に無関心。母親に言われるままに姉の真似をしたり、姉の結婚後は、姉を殺して摩り替わって"王子"の妻になったりするが、失敗したり罰されて体が不自由になったり殺されたりする。

 三番目は、姉たち。三人もしくは七人の姉(叔母)で("シンデレラ"を含めて三人もしくは七人姉妹と語られたり、姉一人と語られる場合もある。)、継母と同じように難題を課して縁談を阻むこともあれば、妹と同じように結婚後の"シンデレラ"を殺して摩り替わることもある。

 最後は、先の妻たち。一夫多妻制社会での伝承で、"王子"には既に一〜七人の妻あるいは婚約者がおり、"シンデレラ"はその一番若い妻となる。先の妻たちは夫の寵愛を独り占めにした"シンデレラ"を憎み、夫の留守中に殺したり、生まれた子供を獣と摩り替えるなどして陥れる。

 この他、ごくまれに"シンデレラ"に横恋慕する男が、嫉妬のあまり"シンデレラ"を陥れるタイプもある。

 

 これらは互いに交じり合い、時には入れ替えられている。継母姉たちは日常の家事や難題を課すという点で重なることがあり、姉たちは結婚後の"シンデレラ"を殺して摩り替わるという点で重なることがある。そして、先の妻たちは、時に姉たちと入れ替えられ、同じ扱いで語られる。

 「かわいい子牛」の冒頭では、三人の妻たちがそれぞれ旅立つ夫に贈り物を約束し、子供を生むと約束した一番若い妻が他の妻たちに妬まれ、生まれた子を捨てられる。これとほぼ同じモチーフは西欧の「みどりの小鳥」(「幸せ鳥パイパンハソン」の註を参照)の冒頭にも出てくるが、こちらでは三人の妻ではなく三姉妹で、末の妹が子供を生むと約束して妬まれる。

 夫に贈り物を約束するのではなく、父に三姉妹が贈り物をねだる形に逆転しているが、似たモチーフは「塩のように好き」や「灰まみれのメス猫」、「灰かぶり」(決定版)にも見える。

 このように、同じ夫を共有する妻たちは、簡単に姉妹という設定に入れ替えられる。というより、もしかすると、姉たちとして語られている物語のうちの幾つかは、実は先の妻たちの暗喩・変形なのではないか、と思わせられることがある。

 

 かつて、日本には姉妹が一人の夫に嫁ぐという一夫多妻制度があった。夫はまず姉妹の長姉を娶り、その妹たち全てが同じ夫に嫁ぐことになる。この習俗は、日本では古代で廃れたが、その源境であろう北方諸民族では近代まで伝承されてきた。中国の満族、蒙古族に関する記録、韓国の高麗朝の記録などに姉妹型一夫多妻制の実施が見える。

 この習俗と、民話伝承に見える「姉たち∽先の妻たち」のイメージが関連するのかどうかは分からないが、姉妹でありつつ同じ夫を共有する妻でもあることが現実に有り得た、というわけである。「南の島のシンデレラ姫」で、ジャバの王と結婚した末の妹に、六人の姉たちが付いていったと語られるのも、もしかしたらそういうことなのかもしれない。

 

 一夫多妻とははっきり語られていなくても、"王子"には既に恋人または婚約者がいたと、たとえば「人狼の皮」や「金の燭台」や「金の雄牛の物語」などでは語られている。ここでは婚約者は一人だけれども、シンデレラ系ではないが「金の燭台」に似た話ミルテの木の娘」では、「王子には七人の愛人がいた」と明確に語っており、彼女たちは"王子"の寵愛を独占したミルテの妖精を妬んで惨殺する。また、「フェアとブラウンとトレンブリング」では、三姉妹の末トレンブリングの夫となる王子は、元々長姉のフェアの恋人だったと語られている。

片目の謎

 [善い娘と悪い娘]系の話を見ていると、どういうわけか、主人公のライバルたる悪い娘が"片目"だと語られることがあるのに気が付く。たとえば「継子たち」や「小さい野鴨」がそうだ。また、[基本のシンデレラ]系などでは、姉たちがスリッパテストで靴を無理に履こうとして片足を痛めた、と語られることがしばしばある。

 これは一体何なんだろう。

 日本では、片目や一本足の神はよく見られ、片目の魚や片目の竜の伝説もあちこちにある。”片目”は聖別であって、神または巫女の印であるというのが、日本で現在普遍化している考えかただ。障害のある者を神に印をつけられたとして”シャーマン”の役をあてがったのか、あるいはシャーマン・生贄役の人間の目を潰し足を折って逃げられなくしたものか、どちらなのかは分からない、と。

 あるいは、古代の金屋たちは、たたら製鉄の職業病として、片足でふいごを踏みすぎて足が不自由、覗き穴から炎の色を見すぎて片目が不自由な者が多かったので、当時の最新技術者である彼らの姿が神と同一視された、という説もある。

 実は、金屋が足や目が不自由だと語る伝承は日本に限らない。ギリシア神話の鍛冶神ヘパイストスは片足が不自由だし、同じくギリシア神話の鍛冶巨神キュクロプスたちも一つ目とされていた。北欧神話には、足の腱を切られた鍛冶師ヴェルンドが登場する。

 どうして、金屋――金属産業に関わる神的存在は目か足が不自由なのだろうか。ふいごを踏み過ぎたから――というのは、少しばかり無理があるような気がする。

 これは私の勝手な推測なのだが、恐らく、これらの肉体の欠損は、(先に述べた、現実に職業病としてそうなったという説とは別の意味で)金屋たちが燃え盛る窯を扱って作業を行うことに端を発するのだと思う。

 女神のかまどが冥界を表すように、金屋たちの窯も冥界を表している。冥界の火を操る金屋たちは冥界の神であり、実際、西欧の民話伝承では、地獄の悪魔や竜を出し抜いたり退治したりする豪腕の者、あるいは不思議な魔術を扱う悪魔的存在として、鍛冶屋がしばしば登場する。

 『グリム童話』の「若く焼き直された小男」(KHM147)のように、神が病老者や子供を鍛治道具で焼き直し、立派な若者に生まれ変わらせる、という民話もある。「鍛冶屋」と「再生の力を持つ冥界神」のイメージが重ねて考えられていたことが分かる。

 このように、冥界に属するということは、死と再生に関わる、ということでもある。

 金屋たちは現界に生きて存在しているのだけれども、冥界の神として、時に"死者"としての表象をも与えられる。それが、足が不自由(代わりに翼で飛ぶ)だとか片目が不自由という、肉体欠損のモチーフなのではないだろうか。民話伝承では、死を表す暗喩として、両足を切られて穴底に投げ捨てられる、両目が潰れて荒野などをさまようといった描写がよく出てくる。片足だけ、片目だけが不自由ということは、半分だけ死んでいる――半分だけ冥界の者であって、自由に冥界と現界を行き来できるシャーマン、という意味なのではないだろうか。

 ギリシア神話によると、英雄イアソンが叔父が王権を奪っていた自分の国に帰還したとき、片足にだけサンダルを履き、片足は素足という姿だったとされる。これを見て叔父はおののいた。というのも、「片方のサンダルを履いた男モノサンダロスの手にかかって死ぬ」という予言を受けていたからである。そこで叔父は甥に尋ねた。「もしお前がある者に殺されるだろうと予言されたら、その者をどうするか」イアソンは答えた。「私なら金羊毛皮を取りに行かせるでしょう」。「では、お前が行ってそれを取ってくるのだ」。こうしてイアソンは出発し、打ち合う岩門の向こうの国、竜の腹の中、つまり冥界に下っていくことになる。

 イアソンが片足にしかサンダルを履かずにやってきたのは、道中で老婆(実は女王神ヘラの化身)を背負って氾濫していた川を渡してやった時に忘れたか流されたかしたからなのだが、片足にしか靴を履かない(片方の靴を落とした)者もまた、半分冥界に属する者、の象徴的意味があると解釈されている。(『ギリシア神話 神々の時代/英雄の時代』 カール・ケレーニイ著、植田兼義訳 中公文庫 1985.)

 【運命説話】の中に、「子供が両方の足に両方の靴(または、靴下)を履く日が来たら、その日にその子は死ぬ」と予言されるパターンがあるが、これも片方だけの履物∽片足が不自由=半分冥界に属している∽まもなく死ぬ、という思想からきているのかもしれない。

 池上俊一の『歴史としての身体』によれば、十二世紀初頭の南フランスやスペインの教会の壁面に片足だけ素足の女性の姿が浮き彫りにされており、性的な堕落や宗教的な悪徳の烙印をおされた者を表しているのだというが、これも、神殿娼婦の流れをくむ、異教の女神(冥界の女神)を信仰する女――魔女を表しているのであり、半分だけ冥界に属する、異教のシャーマンであることを示す古い表象なのかもしれない。

 ジプシーの民話「太陽の樹」(『「ジプシー」の伝説とメルヘン 放浪の旅と見果てぬ夢』 ハインリヒ・フォン・ヴリスロキ著、浜本隆志編訳 明石書店 2001.)では、一つ目の男だけが太陽の樹の枝を取ってくることが出来、王女と結婚することが出来る、と語られている。この太陽の樹の枝には死者をも甦らせる力がある。

 

 悪い娘は、善い娘(シンデレラ)とは正反対の性質、容姿として描かれることが多いけれども、時には見分けがつかないくらいよく似ている、とも語られる。正反対でいながらそっくりな彼女は、実は善い娘とは表裏一体、同じ存在の裏と表の関係だと言える。

 つまり、悪い娘も善い娘と同じ、冥界の女神の小分身であり、その一面を表しているのではないか。冥界に関わる聖別された存在、冥界と交信できるシャーマンの証として、片目が潰れている、片足を痛めた、などという印を付けられているのではないか、と思いもする。

 

 一方で、「一つ目、二つ目、三つ目」のセンから見ていくと、一つ目の悪い娘のルーツは、ギリシア神話に登場する百眼の怪物アルゴスではないか、とも思えてくる。

 アルゴスは牝牛に変えられた王女イーオーの見張りをしていた。それを命じたのは女王神ヘラで、ヘラは夫ゼウスがイーオーと交わったために、嫉妬からイーオーを苦しめたのだった。「一つ目、二つ目、三つ目」で継母が一つ目または三つ目の我が子に憎む"シンデレラ"を見晴らせるのと、構造はよく似ている。

 牝牛になってさ迷い歩くイーオーは、月を表しているとされる。つまり、彼女も再生と復活の月の魔力を持つ冥界の女神である。それを見張っている多眼のアルゴスは、冥界の黄金のリンゴの傍にいる多頭の竜と相似の存在と言える。

 

 なお、突き詰めれば冥界の女神と竜は同じ「呑み込むもの」として、これまた相似の存在であるから([眠り姫のあれこれ〜龍の口と女神の園]参照)、どちらにしても悪い娘は善い娘の分身で、冥界がらみの存在の印として目の数が通常と異なる、という結論になるだろう。

スープと三々九度

 日本には、婚礼の際に新郎と新婦が一つの盃から順に酒を飲む"三々九度"という儀式がある。アイヌにも似た習俗があって、女が男に山盛りの飯を与え、男がそれを半分食べて女に渡し、残りを女が食べてしまうと、それで婚約成立、ということだったらしい。

 ところで、日本の「姥皮」系伝承には、"シンデレラ"の美しい姿を垣間見た"王子"が恋煩いで死にそうになったため、屋敷中の全ての女に、盃に酒を注させたり食事や茶を運ばせたりして、"王子"が受けて飲食した女を妻にする、という花嫁選びのモチーフが出てくる。

 私は、これを読むと三々九度の儀式を思い出さずにはいられない。実際、一つの飲食物を(作って)与える、受けて返すという行為には、"同じ釜の飯を食う"のと同じ、身内になる、という意味があり、すなわち婚約という意味で物語上にも現れているのではないだろうか。

 

 西欧の「千匹皮」系伝承では、このモチーフは少し異なる形で現れている。"シンデレラ"の美しい姿を垣間見た"王子"が恋煩いで死にそうになるのは同じだが、"王子"のもとへ持っていかれる飲食物を食べたかどうかが問題になるのではなく、その(主にスープの)中に入っていた"シンデレラ"の美しさや身分、または王子との婚約を示すもの――金の指輪、金のまり、金の髪の毛から、この料理を作った者こそが花嫁だ、と断定されることになっている。

 それに伴って"王子"の感情的なニュアンスも異なっている。

 「姥皮」系では、"王子"は恋煩いの相手の正体を承知していて、周囲に認めさせるための方便としてこのような婚約の式を行ったように読めるのだが、「千匹皮」系の"王子"は、自分の恋する相手の正体がまるで分かっておらず、とんちんかんな探し方をしている。類話によっては、醜い姿の"シンデレラ"に横暴な態度を取り、打ったり物を投げつけたりさえする。しかし、恋煩いの相手が身に着けていた、または婚約の印――妻問いの宝として自分が贈った金の宝を料理の中に発見し、その料理を作ったのが下働きの"シンデレラ"だと知って真実を悟ると、コロリと態度を変えるのだ。

 思うに、これは西欧に「同じ飲食物を分け合って食べる=婚約」という風習がなかったか認知度が低かったゆえに生じた、脚色の差異ではないだろうか。この風習が認知されている地域では飲食物を受けて食べることがそのまま婚約の意味になるので、それ以上のエピソードの追加は不要になるし、元々"シンデレラ"の正体を知っていた、という前提も必要になる。だが、その風習のない地域ではもっと決定的な愛の証拠(婚約指輪)が必要になり、それが示されるまで"王子"は何も気づかずにいなければ物語が成立しない。

 同じ西欧のこの系統の類話でも、ペローの「ロバの皮」やバジーレの「熊娘」など、恐らくこれらの物語が中東から移入されてそう時間が経っていないころの、やや古い時代の文献に残るものでは、「姥皮」に良く似たニュアンスで物語が語られている。料理の中に指輪が入れられてはいるが、それゆえに"王子"が"シンデレラ"の正体に気づくのではなく、既に知っていることの確認と周囲を納得させるための方便として使われている。

 

 この、恋人を想うあまり病気になった"王子"に手作りの飲食物を持っていって食べさせるテストは、[箱の中の娘]でも見ることができる。だが、シチュエーションは異なる。この場合、"王子"の留守中に恋人の"シンデレラ"が"妬む女"に害されて行方知れずになってしまい、そのために"王子"は思い患って床についている。そこに、蘇った"シンデレラ"が料理(汁麺)を届けさせ、それがとても美味しかったこと、中に"シンデレラ"の髪の毛が入っていたことから、彼女が無事に生きていたと悟り、健康を回復して迎えに行く。

 [その後のシンデレラ〜白い花嫁・黒い花嫁型]や【蛇婿】にもこのモチーフは現れるが、更に違う形になっている。やはり"シンデレラ"は"妬む女"に殺されるが、"王子"は騙されてそのまま"妬む女"を妻にして暮らしており、思い患って病気になるモチーフはない。蘇った"シンデレラ"は貧しい自宅に"王子"を招待して料理を出し、自分の存在を示す。"王子"が自分からすぐに気づく場合もあるが、なかなか気づかずに"シンデレラ"に皮肉られる場合もある。「食べ物を与える=求愛」の要素はかなり希薄になっている。

 元の妻になかなか気づかない愚かな夫のモチーフは、シンデレラ系ではないが、中国のかまど神の由来伝承や、日本の【炭焼き長者・再婚型】にも現れている。妻はかつて自分を離縁した夫が落ちぶれて乞食になっているのを見て、以前よく作った得意料理の汁麺を振る舞い、更に、中に自分のかんざしと髪の毛を入れておく。あるいは、握り飯や味噌の中に小判を入れておく。しかし、そこまでやっても前夫は言われるまで気づかない。食べ物を与えることによる自己アピールは、ここでは完全に失敗に終わっている。

 日本神話の「海幸・山幸」では、山幸彦が宝石を桶の水の中に吐くと取れなくなり、それがきっかけとなって海神の娘に存在が知られ、結婚することになっている。グリム童話の「忠臣ヨハネス」にも(宝を水の中にこそ入れないものの)同じモチーフが出ている。飲み物の中の宝は、男が女に求愛の印として送っていた妻問いの宝を意味しているのかもしれない。男女が逆転してはいるが、千匹皮が料理の中に指輪を入れるのと重なった、みすぼらしい者から高嶺の花への求愛のモチーフである。

主な参考文献

『世界のシンデレラ物語』 山室静著 新潮選書 1979.
『決定版世界の民話事典』 日本民話の会編 講談社+α文庫 2002.
『婚姻の民俗 東アジアの視点から』 江守五夫著 吉川弘文館 1998.

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