以前、グリム童話にちなんだドイツの各地を巡るというテレビの番組を見ていると、「赤ずきんちゃんは、本当はこんな衣装だったんですよ」と、ドイツの民族衣装を着た少女を映して紹介していたことがあった。頭に赤いモノをつけているのは確かだが、一般的な「赤ずきん」の挿絵で見るような赤いフードではなく、頭頂部に赤いリボンを円筒状に巻いたような小さな飾りなのである。
この番組は『赤ずきんちゃん』を完全にドイツのグリム兄弟の創作とみなし、ドイツの話なのだから赤ずきんは当然ドイツの民族衣装を着ているはずだ、と考えたのだろう。
けれども、実際にはフランスのペローの手による『赤ずきんちゃん』の方が、グリム版より百年以上前に発表されている。それでも、かつてはグリム版の方がより民話の原型を残していると考えられ、ペロー版より重視される傾向にあった――つまり、グリム版がペロー版と一見同じ話を描いているように見えるのは、たまたま双方が民間に伝わる同じ原話を採取したからで、民俗研究家でもあったグリムのほうが民話の形を正確に写しているだろうから研究対象として価値がある、とされていたわけだ。そうして、グリムの『赤ずきんちゃん』にさまざまな意味を読み取ろうとした。たとえば、「赤ずきんの"赤"は経血または処女喪失の際の血の色の象徴」「赤ずきんちゃんの持たされるぶどう酒のビンは壊れやすい処女性を意味」「狼が「エプロンの中に何を持っているの」と訊くのは実に露骨な意味」だとか。果ては、「赤ずきんの"赤"は太陽を意味し、太陽が姿を消してまた現れる古い太陽神話の名残り」などと唱える研究者さえいた。
ところが、後の研究によって、グリム兄弟にこれらの話を伝えたのがフランス系の婦人であったことや、この系統の民話には「赤いずきん」は一切登場しない――「赤いずきん」はペローの創作であること、そもそもドイツにこの系統の民話が見つからないことが分かり、つまり、グリム版『赤ずきんちゃん』はペローによって文芸作品化された民話の焼き直しに過ぎないことが明らかになったのである。当然ながら、赤いずきんに秘められた神話的意味など、あろうはずがなかった。
以上のことから、もしも赤ずきんちゃんの赤いずきんが何か現実の民族衣装を表しているのだとしても、ドイツのものではなく、フランスのそれでなければおかしいと思うのだが。
なお、ペローの「赤いずきん」は、どうやら貴族や中流家庭の"お嬢さん"の被るしゃれた帽子のことだったようだ。けれども、この物語がヨーロッパ全域の民間で親しまれていくうち、農婦たちの被る質素な乗馬用の帽子、ただし真紅のしゃれたもの、と認識されるようになっていったようである。
フランスの民間伝承に今も残るこの物語の主人公たる少女は、名前もなく、特に個性を持たない。そんな彼女に「赤いずきん」を着せることで、主人公として鮮やかに立たせたのはペローの手柄であり、創作作家としての手業である。現に、この後にこの物語を扱った、グリムを含む数多くの作家たちが、彼の着せた「赤いずきん」を主人公に不可欠の要素として捉え、継承し続けているのだから。
『赤ずきんちゃん』に登場する狼は、"人食い"である。物語上は人食いであればなんでもいいはずで、事実、東アジアの各国の類話を見ていくと、山猫、虎、熊、豹、狢といった獣、またはその獣の変化に入れ替えられたり、果ては山姥、鬼女といった妖怪にも入れ替えられている。
けれども、ペロー、グリムの『赤ずきんちゃん』を引用した絵画や文章、パロディ作品を見ると、狼はあまり"人食い"とは見られておらず、もっと別の存在として認識されているのが普通である。「男は狼なのよ、気をつけなさい…」という歌があったが、『赤ずきんちゃん』の狼はまさにこれ、甘言を弄して女性に近づき性的交渉を持ってしまう――女たらしの男として一般に考えられているのだ。狼=女たらしというイメージは普遍的なもので、現在でも普通に「送り狼」だとか「狼に食べられる」といった言い回しを使うが、実はペローの時代にも既にこの系統の言い回しがあって、少女が純潔を失うことを「彼女は狼を見た」と表現していたのだそうだ。
ペローは少女たちに向けて「狼に気安く近づいてはいけない、食べられてしまうよ」と警告を発し、グリムもそれを受けて「知らない狼おじさんとお話しちゃいけませんよ」と子供たちを戒めたが、これを女性や子供に対する締め付け、拘束と感じた後の時代のパロディ作家たちは、逆に狼を"食べて"しまうような、狼と共に野に去って帰らない赤ずきんを好んで生み出しているようである。
なお、『赤ずきんちゃん』の狼には、もう一つ、別の意味も込められている。『おばあちゃんの話』ではっきり語られているように、"狼憑き"、すなわち人狼である。西欧には広く人狼の信仰が広がっているが、日本で言うなら狐憑きに近い、忌まわしくも呪われた、社会から忌避されている存在なのだ。狼憑き=悪魔と言い換えてしまってもいいかもしれない。世間知らずの赤ずきんはそうと知らずに狼と接触したため、恐ろしい結末を迎えることになるわけだ。
『おばあちゃんの話』には、いかにも民話らしい、謎めいた言い回しのシーンが出てくる。
「どっちの道を行くんだい?」と、狼憑きは訊いた。「縫い針の道かい? それとも
「縫い針の道よ」と、女の子は答えた。
「そうかい。じゃあ、俺は留め針の道にしよう」
この二つの道は「人生」を表していて、つまり「縫い針を使う勤勉な人生」と「ピンを使う怠け者の人生」のうちどちらを選ぶかのテストだと、研究者の間ではいわれているようだ。この女の子は縫い針の道を選んだからこそ、最終的に狼から逃れて助かったのだ、と。
けれども、私はこの解釈には大いに疑問を感じる。何故なら、縫い針の道を選んだ女の子は縫い針を拾い集めたりして道草を食い、おばあちゃんの家に着くのが遅れて、その間におばあちゃんは狼に食べられてしまっているからだ。縫い針の道が勤勉な道なら、どうしておばあちゃんの家に着くのが遅れたりするだろうか?
ペロー版の『赤ずきんちゃん』では、狼は近道を全速力で駆けて行き、赤ずきんは遠回りの道を道草しながら進んでいる。つまりはそういうこと――縫い針で縫う仕事は時間がかかる。ピンで留める仕事はあっという間に終わる――縫い針の道とピンの道とは、単純に「遠回りの道と近い道」程度の意味しかないのだと、私は思っている。
『赤ずきんちゃん』においては、狼は祖母の家に侵入するのに全く苦労をしない。祖母は狼が作り声で「孫の赤ずきんよ」と言うと、毛の一筋も疑わずに中に入れてしまう。そもそも、戸に鍵はかかっていないのだ。狼はたやすく家に入り、祖母を食べてしまう。やがて本物の赤ずきんがやってきて、狼の扮した"祖母"の声がしわがれているのや手足や目口が大きいのを怪しむが、それだけ。彼女はあっさりと家の中に入り、ベッドまで行って食べられてしまう。このあっけなさぶりから、祖母や赤ずきんの愚鈍さを揶揄する声は少なくない。「どうしてそんなに簡単に騙されるの?」――ペローやグリムは赤ずきんをわざと愚鈍な少女に仕立て上げて、男の好都合な女性像を「こうあるべき」と押し付けているに違いない……などと。
民間に伝わる数多くの類話に登場する子供たちは、やはり騙されはするのだが、もう少しは疑ったり迷ったりしている。『狼と七匹の子ヤギ』でも有名な、扉越しの「入れて、入れない」の問答は、話の序盤の盛り上がるところである。人食いがやってきて戸の外から「お母(婆)さんよ、入れてちょうだい」と言うと、一番賢い子供が「声が違う」と怪しんで戸を開けない。(この、「開けてちょうだい」という言葉が合言葉になっている場合もある。扉の向こうの声がいつもの言葉を言わないので、子供たちは怪しむ。)人食いが声を美しく整えると、今度は「手を見せろ、(見て)そんな毛むくじゃらの手はおかしい」と言い、人食いは手に何かを塗ったり巻いたりして誤魔化す。次は足。そしてとうとう、子供たちは騙されて人食いを中に入れてしまう。
家の中に人食いを入れてしまっても、更に騙し騙されの攻防が続くことがある。『狼ばあさん』などはそれがもっとも顕著である。賢い娘は家の中に入ってきた"祖母と名乗る者"を怪しみ、「どうして、どうして」と尋ね続ける。それに対する狼の苦しい言い訳が、この物語を愉快に盛り上げている。
こますちゃんがベッドの中で足を伸ばすと、足の先が毛むくじゃらの太い尻尾に触りました。こますちゃんは訊きました。
「ねぇ、おばあちゃん。おばあちゃんの体のどこが、こんなに毛むくじゃらなの?」
「おばあちゃんは麻糸を
こますちゃんが手を伸ばすと、尖った足の爪に手が当たりました。こますちゃんは訊きました。
「ねぇ、おばあちゃん。おばあちゃんの体のどこが、こんなに刺さりそうに尖っているの?」
「おばあちゃんは靴底を作るから、鉄のキリを持っているのさ」
「どうしてそんなに大きな目なの?」「お前をよく見るためさ」「どうしてそんなに大きな口なの?」「それはお前を食べるためさ!」という一連のやり取りは『赤ずきんちゃん』で最も盛り上がるシーンだが、このモチーフ自体は中国のシンデレラ系の民話などにも現れていたりする。そこでは、姉を殺して入れ替わった偽者の花嫁が、容貌の変わったのを怪しむ夫との間でこの問答を行っている。愚鈍な赤ずきんと同じく、この夫も結局、妻が入れ替わっていることに確信がもてず騙されたままになる。女性だから愚鈍で騙されるわけではないようである。
『赤ずきんちゃん』に登場する狼が"男"だというのは、誰もに異論のないことだと思う。文中にはっきり「狼おじさん」などと書かれていることだし。ところが、同じ西欧でもイタリアに伝わる類話では人食いは鬼女――"女"である。東アジアに伝わる類話も、山姥、鬼女として現れることが多く、性別が語られていないものでも、殆どが"女"であるように読み取れる。
本来、この物語に登場する人食いは女であったのだと思う。『赤ずきんちゃん』のように人食いが"男"のバージョンもあるが、その場合、人食いは不自然にも「女装」するはめに陥ってしまう。子供たちの母や祖母や叔母に変装して登場するからだ。野太い声や黒い足、毛だらけの手を誤魔化すのは女の人食いでもやるが、男の人食いは更に、祖母や母の衣装をすっかり身にまとって女を演じなければならない。この点に、男になりきれていない人食いの本性が残されているように思う。
日本の【瓜子姫】の人食い、天邪鬼も、これら【赤ずきんちゃん】系の人食いとよく似た扱われ方をしている。基本的には"女"であり、瓜子姫と入れ替わって嫁入りしようと目論んだりするのだが、類話によっては"男"であり、瓜子姫を殺してその衣服または皮をまとって瓜子姫に成りすます――女装する。更には、殺した瓜子姫を料理して瓜子姫の両親に食べさせる場合があり、瓜子姫の指を「芋だ」と言って出したりして、『おばあちゃんの話』で狼が祖母の血や肉を少女に食べさせたり、東アジアの『狼ばあさん』系の話で食い殺した弟の指を姉に「食べろ」と与えるエピソードと共通している。留守番をしている瓜子姫のところに天邪鬼がやってきてしばらく扉越しに「入れろ、入れない」の問答をするのも、『狼ばあさん』や『狼と七匹の子ヤギ』系の話に似た感じがする。
『赤ずきんちゃん』が性的なニュアンスを秘めた物語だとされる根拠の一つに、赤ずきんちゃんが狼に食べられるのが「ベッド」である、という点がある。
グリムの赤ずきんは、祖母に化けてベッドに横たわっている狼の側まで行き、そこで襲われて食べられる。ペローの赤ずきんや『おばあちゃんの話』になると、赤ずきんは狼に言われるままに衣服を脱いで、素裸でベッドの中に入ってしまう。こんな描写を読めば、そこに性的なニュアンスを読み取らない者の方が少ないだろう。
では、『赤ずきんちゃん』とその原型となる民話群は、こうして解釈されているとおり、少女の純潔喪失の警告を語る艶話なのか……?
そうとばかりは言えない。視界を広げて東アジアの類話群を見ていくと、そこでもやはり祖母に化けた人食いと子供が同じ寝床に入るが、そこに性的なニュアンスは見出せないからだ。人食いが子供と同じ布団で寝ようとするのは、あくまでその子を布団の中で(文字通り)食べてしまいたいからであり、同じ布団で寝なかった別の子供は、布団の中で食べられてしまった兄弟の血や指や骨のひとかけらを現実に見せ付けられる。
ペローの『赤ずきんちゃん』や『おばあちゃんの話』で、狼が赤ずきんちゃんに「ベッドにお入り」と言うのは、いかにも唐突で不自然に見える。まだ寝る時間ではないはず(?)で、しかも祖母は病気で寝ていたわけだから。聞き手は、狼が「肉を食べる」以外になにやら怪しい目的を持っているのではと想像せずにはいられない。だが、東アジアの類話群では人食いが子供を寝床に誘うのは夜遅くであり、久しぶりに訪ねた祖母が孫を抱いて寝ようと言う、ごく自然な成り行きとして描かれている。そして実際に食べられた子供の肉片までが登場するのだから、そこに怪しい解釈の余地はない。
思うに、フランス近辺で語られている性的ニュアンスがある類話は特殊なアレンジで、東アジアの性的ニュアンスのない類話の方が、この民話の原型なのではないだろうか。
東アジアの人食いはフランスの狼のように子供に服を脱いで布団に入ることを要求したりはしないが、中国の類話の中には「体をきれいに洗った子と寝よう」と要求して、言われたとおりに体を洗ってきた子供を布団の中で食べてしまい、怪しんで逆に体に炭を塗った子供は生き残るというものがある。これから見るに、「服を脱いでベッドに入りなさい」というのも、宮沢賢治の『注文の多い料理店』のごとく、本来は単に「肉を食べやすいように裸になれ」という意味合いだったのが、歪んで性的な意味と捉えられるようになったのではないかとも思われるのだが……これは、次でもう少し考察してみよう。
『おばあちゃんの話』には、少女が狼に言われるまま一枚一枚衣服を脱いで火にくべていき、しまいに素裸になってしまう"ストリップ"のシーンがある。この"ストリップ"に性的なニュアンスを見出す人は多いようである。なにしろ、どうしてここで少女が服を、それも一枚一枚確認しながら脱いでいかなければならないのか、物語上の理屈がわからない。「脱がす」のが目的で、それを強調するために一枚一枚確認するのか、と思ってしまう。
さまざまな民話を見ていくと、逆に、少女が一枚一枚衣服を身につけていくモチーフを目にすることがある。この民話想で紹介している例話では『水車小屋の亡霊』や『ペリア・ポカク』に現れているが、少女が一つ一つ「ドレスが欲しい」「靴が欲しい」「アクセサリが欲しい」などと要求するのにはちゃんと意味があり、それは誘ってくる男性(怪物)をじらし、逃れる時間を稼ぐためなのであった。
そう、くどいと言えるほどに一つ一つ何かを確認し受け渡しを行うのは、時間稼ぎのためなのである。韓国の『太陽と月になった兄妹』では、人食いに襲われた母が、まず持っていた食べ物を、次に着ていた服を一枚一枚脱いで与えて、しまいに素裸になって逃走していく。この逃走モチーフも世界のあちこちで見かけるものだが、日本では【牛方山姥】が代表的である。
男が山道で人食いに遭う。人食いに要求されるままに持っていた食べ物を一つ一つ与え、無くなると連れていた牛または馬の体を少しずつ与え、人食いがそれらを食べている隙に山奥の小屋に逃げ込む。ところが、その小屋は人食いの住処だった。男は家の二階(天井裏)に隠れて、帰ってきた人食いの食べる餅を横取りするが、人食いは愚かで気付かない。人食いが「広いところに寝るか箱の中に寝るか」というような独り言を言うので、すかさず「箱の中」と囁く。人食いは天の声だと思って素直に箱の中で寝る。男は箱を燃やすか熱湯を注ぎ込んで人食いを殺す。
このような視点から見ていくと、『おばあちゃんの話』での"ストリップ"も、本来は「人食いから逃れるための時間稼ぎ」だったのではないかと思われてくる。実際、類話の『姉弟と山姥』でも、人食いに追われた少年は木の上に服を全部脱いで、自分は素裸で逃げていくのだし。人食いは木の上の服が抜け殻とは気付かず、まんまと騙される。
寝床に入った子供たちは、ここでようやく、一緒にいるのが人食いであることに気づく。さて、そこでどうするか? ――子供たちは叫ぶ。「トイレに行きたい!」
いつの世も、都合の悪い場面から逃げる際に「ちょっとトイレに」と言って席を立つのは有効な手段であるようである。しかし、敵もさるもの。そう簡単にトイレに行かせてはくれない。「布団の中で排泄しろ」と言う場合がある。しかし子供は「汚いからイヤだ」と反抗する。次に、トイレではなくベッド近辺や家の中のどこかで排泄しろ、と言うが、子供は「そこに宿る神様に失礼だからイヤだ」と反抗する。とうとうトイレ(または庭)に出してもらえることになるが、人食いは用心深い。子供に紐を結びつけて、その片端を自分が持ち、逃げられないようにする。
この紐、普通の紐だったり、先に食べられた子供の腸だったり、鉄の鎖だったりする。フランスの話では足に、中国の話では腕に結びつけられるが、日本の場合、殆ど腰にヒモを結びつけることになっている。(ただし、南島地方の類話では中国と同じく腕に結びつける。)子供は紐を外して木や動物に結びなおし、そのまま逃走する。
ところで、【赤ずきんちゃん】系と近しい関係にある日本の民話群に【三枚のお札】がある。日本ではとてもメジャーな民話なので知らない人はいないだろうが一応説明しておくと、
お寺の小坊主が山の中の一軒家に泊めてもらう。その家に住んでいるのは老婆もしくは女ただ一人である。
夜中に、小坊主は女が人食いであることに気づく。「トイレに行きたい」と言うと、人食いは小坊主の腰に縄を結びつける。
小坊主は縄をトイレの柱に結びなおし、和尚にもらっていたお札を一枚貼って(または、縄をお札に結んで)逃げる。人食いが縄を引いて「まだか」と言うと、お札が「まだだ」と答える。
やがて騙されたことに気づいた人食いが逃げる小坊主を追ってくる。小坊主は残りのお札を次々後ろに投げて山や川や火を出し、追っ手の足を阻む。(ここで人食いが火に焼かれて死ぬ結末もある。)
小坊主は寺に逃げ込む。(和尚が人食いをやっつけてくれるハッピーエンド、和尚が人食いに食われて小坊主は動物に変わるアンハッピーエンドなど、結末はさまざま。)
……というような話である。人食いがいかに子供を騙して近づいてくるかの点ではなく、子供が人食いから呪宝を使って逃走する、【呪的逃走】に重点が置かれている。紐を結ばれてトイレに行くモチーフ以外に【赤ずきんちゃん】系との共通点はないようにも見えるが、類話を見ていくと、人食いの女が小坊主の叔母を名乗って現れたり、例によって一緒の寝床で寝ていると夜中に女が齧るので人食いだと分かったりといった、共通のモチーフが重なって現れており、やはり、かなり近しい関係の話群だと言えると思う。
面白いのは、この話群には、小坊主が逃げたことを知らない人食いが紐を乱暴に引くと便所の柱が倒れたり鳴ったりするモチーフが見られることで、日本神話で冥界から逃げるオオクニヌシが冥王スサノオの髪の毛を館の柱に結びつけておくシーンを私は思い出してしまう。琴が鳴り響いてオオクニヌシの逃走を知らせ、スサノオがオオクニヌシを追おうとすると髪の毛で引っ張られた柱が引き倒されて館が崩れてしまう。結果として、オオクニヌシは逃げ延びる。中国の『熊ばあさん』でも、人食いが紐を引くと便壷が倒れて中身がこぼれ、人食いは滑って転んでしまう。紐が、子供の逃走の時間稼ぎの道具として作用している。
小坊主が持つ呪宝――三枚のお札は、たいていは和尚が小坊主に予め渡しているものなのだが、時には、便所の中で祈ると便所神が現れて授けてくれたりする。あるいは、お札自体は和尚から授かっていても、逃げる際に便所神に祈ることもある。どうしてここで便所神が現れるのだろうか?
『熊ばあさん』の例から言っても、排泄物は人食いの足を止め、時間を稼いで子供の逃走を助けてやっている。排泄物には何かそういう呪力があるらしい。日本神話でイザナギが冥界から逃げ帰るときにも、おしっこをして、それが川になって追っ手を阻んだという伝がある。また、日本民話の【鬼の子小綱】の岩手県や鹿児島県喜界島の類話でも、さらわれた娘(姉)を探して鬼の住まいにたどり着いた爺(弟)が、娘と鬼と娘の間に生まれた子・小綱を連れて逃げ出すが、小綱は予め鬼の住まいのあちこちに糞を垂れておいて、その糞が鬼に返事をしている間に逃げていく。西アフリカの『クワシ・ギナモア童子』という話では、クワシ・ギナモアという少年と人食い婆が何度も騙し騙され勝負を続けるが、最後に、クワシ・ギナモアは留守番していた婆の孫娘を騙して殺し、それをスープに料理して、自分は孫娘に変装して、婆に食べさせる。食べた後で婆は騙されていたことに気づくが、クワシ・ギナモアは家の中に糞をして「外に捨てさせてよ」と言って外に出るなり、「やーい」と嘲って逃げていく。
今でも、「トイレの花子さん」だとか、トイレにまつわる怪談は数多い。それは、昔から人々がトイレを異界と現界の境界であると認識していたからに他ならない。今は、どちらかというと不浄のイメージが色濃いが、神話の時代はそうではなく、神と遭遇する場所でもあった。人食いのいる場所は本来、冥界であって、そこから脱出するには境界の神たる便所神に頼るのが正当、ということなのだろうか。
なお、【天道さん金の鎖】系の類話では、子供たちは戸口(敷居)に排泄をする。『さるかに合戦』でも戸口に鎮座した糞がサルの足を滑らせるが……。戸口は家と外界を隔てる場所であり、まさに境界である。
西欧の民話伝承では、このモチーフは、逃げる女がつばか血を数滴落としていき、そのつばや血が女の代わりに返事をして時間稼ぎする、という形で現れるようである。しかし、つばや血は乾くと魔力を失い、返事をしなくなる。
『狼ばあさん』や『天道さん金の鎖』系の類話では、逃げた子供たちは必ず木の上に隠れる。人食いが追ってくるが、木に登れずに下をウロウロする。
これらの物語では、勿論"悪"は木の下の人食いであって、木の上の子供たちは追い詰められた哀れな被害者だ。しかし、一方で子供たちは木の下で右往左往している人食いを嘲笑い、人の悪い嘘で騙して痛めつける。――民話の中には善悪の構図が逆転しているパターンをよく見かけるが、このモチーフも逆転して、木の上にいるのが"悪"で、木の下にいるのが哀れな被害者になっている場合がある。最も身近なところでは、『さるかに合戦』がそうだ。木の上にいるのは悪知恵がきいて意地悪なサル。木の下にいるのはマジメで愚かなカニ。サルは、木に登れないカニの前で散々美味しい木の実を食べて見せ、しまいに「美味しい実をあげるから」と騙して青い実を投げつけて殺してしまう。――カニは死ぬが、その体から何匹もの子ガニが生まれてサルに復讐をする。ちょっと、『狼と七匹の子ヤギ』で狼の腹から子ヤギが出るシーンを思い出させる。中国の『狼ばあさん』系の類話に、人食い熊を箱に入れて煮殺し、その箱を買い取った行商人が箱を開けると、中から数匹の子熊が出て行商人を食い殺す結末の話もある。
もっとはっきりした善悪逆転の例としては、パプア・ニューギニアのブーゲンビル島の民話がある。
根元に水をたたえた果樹があり、木の上には悪童たちがいる。木の下を婆さんが通りかかり、水に映った果実を取ろうとして何度も水に入るが、当然取れない。すると木の上の悪童たちが嘲ってからかい、婆さんにどんどん木の実を投げ与えて、しまいに婆さんは腹がはじけて死んでしまう。悪童たちは死んだ婆さんの陰部を切り取り、その肉を老婆の夫に預ける。爺さんはその肉が何であるかを知らないまま煮て食べてしまう。悪童たちは肉を食べられてしまって怒り、爺さんをはやし立てる。
「やーい爺さん、お前は食った、お前のオッカァの○○食った」
爺さんは怒って悪童たちを追い、悪童たちは追い詰められて『天道さん金の鎖』よろしく木の上から昇天してしまう。(この後の展開は、天に昇ってしまった悪童たちを呼び戻すために鳥たちが使者として赴く、というものになる)
木の上に奸智に長けた男(子供)がいて、木の下に人食い(老婆)が通りかかって……というシチュエーションは、民話で非常にしばしば見かけるように思う。インドには、こんな話がある。
いつも木の上で木の実を食べている少年がいる。ある日、老婆がやってきて木の実を分けてくれ、地面に落ちたのじゃイヤだと頼むので、少年は仕方なく木から降りて木の実を渡す。ところが、たちまち老婆は少年を皮袋に入れると、担いで家まで運び始めた。老婆は人食いだったのだ。少年は、一度は途中で袋に身代わりに土などを詰めて逃げ出したものの、結局つかまえられてしまう。老婆は娘に少年を料理するように言いつけて出かけていくが、少年は娘を騙して逆に殺し、料理して、自分は娘の服を着て変装する。老婆が何も知らずに自分の娘の肉を食べると、猫が「お婆さんは自分の娘の肉を食べてるよ」と言う。最終的に、少年は老婆を突き落として殺してしまう。
ほぼ同じ話はパプア・ニューギニアにもあって、そこでは人食いの持っているのは網袋である。
よく似たモチーフは日本の民話でも見ることができて、たとえば『食わず女房』の後半として現れてくる。
「ものを食べずに働く妻がほしい」というムシのいい願いを持つ男のもとに、本当にものを食べない女が嫁いでくる。ところがこの妻は化け物で、夫の留守中に頭のてっぺんの口から大量の飯を食べていた。それを知った男は離縁を言い渡すが、女は桶を作ってもらって、それに男を入れて、ひょいと担いで山に登っていく。女は人食いだったのだ。男は途中で木の枝につかまって桶から出、木の上に登って逃れる。人食いが探しに戻ってくるが、魔よけの植物のおかげで助かる。
思えば、『狼ばあさん』に近い系統の日本の話群【牛方山姥】でも、人食いから逃げた男は家の二階(天井裏)に隠れ、山姥をからかい、騙し、ついには殺してしまう。「高いところにいる狡猾な童子と下にいる愚鈍な老人(人食い)」というイメージは、かなり強固に人々の間に浸透しているようである。
多くの類話を見ていて感じることだが、この木の下の老婆(怪物)と木の上の童子は、一種の樹木信仰が根底にあるシチュエーションなのではないかと思う。
木の上にいる者は"生命、魂、善良性、若さ"を象徴しており、木の下にいる者はそれを害しようとしている。
中国などに伝わる、樹木の枝に太陽や月がとまるという太陽樹信仰。また、世界が一本の樹であって、樹上には冥界があり、その根は常に悪龍に齧り続けられているという、北欧が有名な世界樹信仰。これらと共通した思想があるように感じるのだ。
実際、このモチーフを持つ伝承の多くに、木の上の子供が昇天して月や太陽になったとか、木そのものが月に引き上げられて、今でも月の影として怪物が木を齧り続けているなどと、日月と関連付けられたものがあり、日月と関連しなくても、木の上の子供が鳥に乗って飛び去ったり、鳥に伝言を頼んだりと、鳥に関連している。鳥はしばしば魂と関連付けられ、太陽の化身ともされるものである。
参考>> <三つの愛のオレンジのあれこれ〜太陽の娘>
フランスの民話『おばあちゃんの話』では、少女は知略をもって狼から逃げ出し、無事に逃げ延びる。ところが、ペローの『赤ずきんちゃん』では、赤ずきんは狼にパックリ食べられてしまい、二度と復活しない。どちらが本当の結末なのだろう。
――恐らくは、どちらも正解なのであろう。
『狼ばあさん』や『狼と七匹の子ヤギ』系の話では、人食いに狙われる子供は複数存在し、「食べられてしまう子供」と「逃げ延びる子供」の双方が登場する。どちらの結末の可能性もあるわけで、それを両方見せてくれている。民話の「愚かな兄と賢い弟」や「正直爺さんと意地悪爺さん」のパターンで、最初に行動した兄や姉が失敗し、末の弟または妹が成功する――あるいは、最初に行動した正直者が成功して、真似をした欲張りが失敗する、これらの話の構成と同じ理屈である。失敗する結末だけ見せられると気分が悪いし、といって、成功する結末だけではありがたみがない。失敗する者のエピソードが語られてこそ、成功した者の"素晴らしさ"がより明確に伝わるのだから。
グリム版の『赤ずきんちゃん』は、ぎこちない形ながらも『狼ばあさん』とは違った方法でそれを試みていて、結末が三重になってしまっている。
まず、(1)赤ずきんが狼に食べられてしまう。だが、(2)そこに猟師が現れて赤ずきんを救い出し、赤ずきんは狼の腹に石を詰めて殺す。更に、(3)その後に赤ずきんは別の狼に出会うが、今度は惑わされず、狼をソーセージの茹で汁に落として殺す。
……はっきり言って、冗長な構成である。知っている限りのいろんな結末のパターンを書き込みたかったのだろうか……。
狼の腹を割いて赤ずきんを救い出す猟師に関しては、昔からさまざまな解釈がなされてきたようだ。彼は"父親的存在"であり、女子供が父親に支配・保護されるべきであることを示しているとか。本来の民話では自分自身の力で危機を乗り越える赤ずきんが、猟師に救われる役回りになったために、自分では何もできない愚かで非力な存在に成り下がってしまっているわけで、そこに女性蔑視、男性の押し付ける理想の女性像が現れているのだ、とか。
猟師は民話には登場しないが、グリムのオリジナルというわけではなく、ティークの『赤ずきんちゃんの生と死』に既に登場している。ただし、この猟師は赤ずきんを食い殺した狼を撃ち殺して仇を討つだけの存在で、救い出すことはできない。
グリムで猟師が狼の腹を割くのは、同じグリムの『狼と七匹の子ヤギ』からのモチーフの移入だと言われている。とはいえ、『狼と七匹の子ヤギ』自体が赤ずきん系の類話の一つでもあるので、グリムが全く無関係なエピソードをご都合主義的大団円として無理にくっつけたとは言えないと思う。興味深いのは、日本の喜界島に伝わる類話に、やはり人食いの腹を割いて食べられていた者を救い出すモチーフがあることで、これから見るに、グリムがこの系統の民話にそういう結末を迎えるものがあることを知っていて、それを選択しただけなのではないか、とも思えてくる。勿論、喜界島の話のほうがグリムの影響を受けている可能性も無いわけではないのだが。
なお、赤ずきん系のアルプス地方の類話では、娘は川を渡って逃げて行き、追う狼は川の水を飲み干そうとして、腹が裂けて死ぬ。日本の「三枚のお札」で見られるのと同じモチーフである。
グリムの『狼と七匹の子ヤギ』では狼は水の中に落ちて死に、グリム版『赤ずきんちゃん』の"もう一つの結末"では、狼は屋根から桶に溜められたソーセージの茹で汁の中に落ちて死ぬ。『三匹の子豚』の、煙突から煮立った鍋の中に落ちて死ぬ狼をも思わせる末路だが、【赤ずきんちゃん】系の民話を見ていくと、人食いの死に方はほぼこの通りにパターンが決まっていて、つまり、「高いところから落ちて死ぬ」か「水に落ちて死ぬ」か「熱で死ぬ」かのどれか(また、その複合)になっている。(例外として、「美味しいものをやる」と口を開けさせて、中に刃物や焼け石を投げつけるものもあるが。)
落ちて死ぬ、鍋で煮られて死ぬのは、【死者の歌】で述べたように、そのまま冥界の光景を再現しているのだと思う。ロシアの『狼と七匹の子ヤギ』で、母ヤギと狼が森に行くと唐突に穴の中で火が燃えていて、それを飛び越える勝負をすることになるのも、冥界くぐりを意味しているのだろう。母ヤギは冥界を通り抜けることができる――再生の力を得ることが出来るが、狼は冥界に落ちる。だが、彼の腹の中に納められていた(冥界に落ちていた)子ヤギたちは再生を遂げる。
しかし、人食いが常に再生できないわけではない。むしろ、人食いは再生することが多く見られる。中国や日本の類話では、死んだ人食い(山姥)は白菜や蕎麦といった植物に再生する。これは、人食いが本来、死してはよみがえる大地――豊穣の女神であったことを意味している。
時に、人食いに狙われた少女もまた、同様に植物に転生する。人食いと少女――(天邪鬼と瓜子姫)――狼(祖母)と赤ずきん(孫娘)は、同じ女神の別の相、入れ替え可能な同一の存在である、と言えるのかもしれない。
主な参考文献
『決定版世界の民話事典』 日本民話の会編 講談社+α文庫 2002.
『赤ずきんちゃんはなぜ狼と寝たのか』 キャサリン・オレンスティーン著 中谷和夫訳 河出書房新社
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