アマゾニスの女王ヒッポリュテの名は、"奔放な雌馬"を意味している。そして、[ニーベルンゲン伝説]や[命の水]の眠り姫たちも、神馬の持ち主であって、英雄にそれを与える役回りである。
ロシアの『若返りのリンゴと命の水』に、こんな一節がある。
イワン王子は自分に合った馬を選ぶことが出来ず、しょんぼりして歩き始めました。すると、向こうから"人目を忍んで暮らしている"お婆さんがやって来ました。
「こんにちは、イワン王子。何をそんなに悲しそうにしているんですか?」
「だって、お婆さん、悲しまないではいられないよ。いい馬を選べないんだ」
「最初から私に頼めばよかったのに。いい馬は穴倉に鉄の鎖で繋がれていますよ。それを連れ出せたなら、あなたのいい馬になるでしょう」
イワン王子は穴倉に行くと、鉄の扉を蹴り飛ばしました。中に飛び込むと、馬は前足を王子の両肩に乗せてきました。王子がそのまま怯みもせずにいると、馬は鉄の鎖を引き千切って穴倉から外に躍り出し、イワン王子を引っ張り上げました。
どうして、いい馬は穴倉にいるのだろう。しかも、それを知っているのが「人目を忍んで暮らしている」という謎の老婆なのは何故なのか?
[ニーベルンゲン伝説]の中には、ブリュンヒルデを多数の馬を所持する女王としている伝承がある。英雄は馬を得るためにそこに押しかけるが、やはり、鉄の扉を蹴破って乱入するのだ。どうやら、イワン王子の馬がいた穴倉とブリュンヒルデの城は同じものらしい。
鉄の扉は、冥界の門を表している。グリムの「命の水」(KHM97)には、命の水を求めて魔法の城に入った王子が城の中で眠り込んでしまい、タイムリミットの夜中の十二時の鐘の音が鳴り響き、慌てて閉まりかけた鉄の門から駆け出して、王子の踵の肉がひとかけら、閉じた門にもぎ取られる、というシーンがあるが、ギリシア神話のアルゴー船の冒険譚にも、素早く打ち合う岩門を通り抜けたものの、船尾の一部分が挟まれて少し千切り取られてしまった、というシーンがある。この打ち合う岩門は冥界の門を示している。
ギリシア神話では、他にも"青銅の門"が冥界の門を暗喩するものとして登場する。作られたばかりの青銅は黄金に輝くものだから、実際には"黄金の門"、すなわち"太陽の門"なのだろう。太陽は朝に昇り夜には沈む。太陽は毎日朝に生まれて夜に死ぬ。太陽が潜る門の奥は冥界である。
西欧の民話を見ていくと、神馬は死者からもたらされることが よくある。例えば、周囲から馬鹿にされている三男坊が三日間父親の墓守を成し遂げると、父の亡霊が地割れの中から神馬を出して与える。あるいは、父が死ぬとき、三日目に自分の墓石を三回叩くように遺言する。息子がそうすると、墓の中から神馬が出てくる。いずれの場合も、神馬は若者の超自然的援助者になり、若者が王女や冥界の女神を妻にする手助けをしてくれる。日本の民話でも、灰坊太郎は死んだ母から神馬を呼ぶ笛を授かる。また、神馬は普段竹林に放たれている。竹林は「森」や「山」と同じ、冥界を表す場所である。
神馬は墓の中からもたらされる――それを知れば、イワン王子の馬がどうして穴倉の中にいたのかは自ずと理解できるし、神馬を与えてくれる女王――眠り姫の居場所が間違いなく冥界であることも確認することが出来るだろう。
特に北欧の人々にとって、馬は勇者の葬儀には欠かせなかった。死者は馬に乗ってあの世へいくと考えられていたからだ。馬の
北欧の主神オーディンは世界樹(ユグドラシル)に首吊り死体としてぶら下がり、九日後に生き返って霊的能力を得たとされる。古期スカンジナビア語
drasil (ドラシル)には「絞首台」と「馬」の二つの意味があり、よってオーディンのぶら下がった
<死者の歌のあれこれ>でも少し触れたが、「子供が冥界の女神に地獄の鍋で煮られて再生する」話(怪物に呑まれて出てくる話と根は同じである)には、何故か馬が関わっていることが多い。この根本は、どうやら古代世界において馬が大地の女神の生贄に捧げられていたことにあるらしい。古代インドのヒンドゥー教徒の女王は、生贄の馬の切り取られた男根を両足の間に挿入して、大地の多産と豊穣を祈ったという。馬が精力的な動物とみなされているからであろう。スラヴ人も生贄の馬の神ヴォロスを信仰していたが、その内臓と血は生命の水を生むとされた。恐らくは、ジークフリートが龍を倒してそうしたように、その血を塗ったり内臓を食べたりしたのだろう。去勢され生贄にされる種馬をヴォロスの化身とする信仰は十八世紀になっても消えず、ついにはヴォロスは"聖ヴラス"としてキリスト教に吸収された。
ところで、西欧の民話に現われる神馬(あるいは英雄が最初に与えられる馬)は、足の数が少なかったり びっこを引いていたりすることが多い。日本の伝承で神聖なものは不具であるとされることをも想起させるが……。女神の生贄の馬が去勢されることを表すのか、「足がない=飛行して移動する=死者、霊的存在」という意味なのか。
馬と女神が関わるのは、生贄の馬は女神の胎を潜って産み直される英雄の化身であり、その妻である女神も、時に"人をむさぼり食う雌馬"として表される、ということのようだ。つまり、冥界の女王が馬を所持しているのは、大雑把に言えば彼女が馬の妻で母親で女王様であり、自分自身も馬になれるから、ということだ。実際、英雄を呑み込む怪物が"馬"として現われている伝承もよく見かける。
男性版シンデレラ『魔法の馬』には、馬の耳の穴を潜って変身するモチーフが入っている。これだけ見ると凄まじく異様で意味不明な行為なのだが、ここまで読んできた方には、これが怪物に呑まれて産み直される、胎内潜りの変形であることはよくお分かりだろう。シンデレラ系民話には、同様に「怪物の体内から宝を取る」モチーフのかけらが しばしば現われている。牛の耳の穴や尻の穴の中から宝やご馳走を取り出す、というものである。(例えば『コンジ・パッジ』や『木のつづれのカーリ』など。)牛も、馬と同様に再生のための生贄として扱われる動物である。
ところで、ロシアやジプシーの民話では、煮え立った馬のミルクの鍋に入って若返る、というモチーフが見られることがある。勿論、冥界を潜って再生することの暗喩なのだが、何故「馬」で「ミルク」なのか。馬が冥界へ渡るための乗り物とみなされていたことは上に書いた。では、ミルクは?
実は、ジプシーたちはミルクを「生命の水」とみなしているのだ。煮え立った馬のミルクの鍋は、命の水を煮え立たせている地獄の釜と読みかえることが出来る。ジプシーたちは死者の葬礼の際にミルクを供えていたそうだ。日本の私たちが"死に水"を死者に含ませるように。死者は「命の水――死の水」を飲まなければあの世に旅立てない、という信仰が日本にもジプシーにもあったということだろう。日本では祖霊にお茶や水を供えるものだが、西欧(イギリスなど)には妖精(妖怪、死霊)にミルクを供える習俗がある。
ところで、イワンの魔法の馬は鼻から火を吹き耳から煙を吹いている。ギリシアの英雄イアソンも、金羊皮を得るために鼻から火を吹く凶暴な雄牛を操る難題をクリアしなければならなかったが、どうしてこれら冥界に属する牛馬の鼻からは火が吹き出るのだろうか。思うに、これは それら牛馬の腹の中に地獄の炎が燃えていることを意味していて、牛馬が「体内に富を持つ怪物(龍)」や「冥界の女神」の縮小版、冥界そのものの相似物であることを、端的に示しているのだと思う。そう思えば、西欧の民話の「宝・姫を護っている龍」がしばしば口から炎を吐くことも、このモチーフと無関係ではないと思われる。
[ニーベルンゲン伝説]で眠り姫を覆う炎の垣が、冥界と現界の境界を意味していることは明白である。
北欧神話には、死んだ光の神バルドルを甦らせるため、勇士ヘルモッドが冥界のヘルの館に下る物語がある。ヘルは冥界を支配する女王だ。その城は高い塀に囲まれており、門は硬く閉ざされている。ヘルモッドはオーディンから借り受けた八本脚の神馬スレイプニルに乗って、この塀を一息に飛び越えて中に入ったのだと言う。
このイメージは、[命の水]系の民話で、世界の果ての眠り姫の城が高い塀に囲まれており、主人公が馬や狼の背に乗ってこれを飛び越える点を連想させる。
この世とあの世の境には、それを隔てるための障壁がある。日本的なイメージで言えば、神馬に乗った勇者は「三途の川を一気に飛び越えた」のだ。
同じく北欧神話にて、豊穣神フレイの死者として女神ゲルズへの求婚に向かったスキールニルは、「昏く揺れる炎を乗り越えられる馬」をフレイに要求している。現存のこの物語の中にスキールニルが炎を乗り越えた描写はないが、「ヴォルスンガ・サガ」でシグルドが馬で炎を飛び越えてブリュンヒルデの城に侵入している点と併せて考えるに、恐らく女神のいる場所は冥界であり、冥界は高い壁もしくは地獄の炎に包まれているというイメージが根底にあったのではないかと思われる。
ギリシア神話では、冥界に女神レーテーの河が流れていることになっている。冥界にやってきた死者は、この河の水を飲んで生前の記憶を忘れる。冥界はしばしば"レーテーの野原"、あるいは"レーテーの家"と呼ばれた。また、ボイオティア地方山中の洞窟に半神トロポーニオスの神託所があり、神託を受ける者は その傍らにある「
この二つの水が、民話で言うところの「死の水」と「命の水」であることは明白だろう。神託所で二つの水を飲まねばならないのは、洞窟(冥界)に入って(忘却――死の水を飲んで)死に、霊から神託を得た後に、(記憶――命の水を飲んで)洞窟から出て生き返る、という意味があったのだと思われる。"眠り"は"死"の相似物だけれども、"忘却"もそれらの相似物であると考えられていたということだ。先に、"
[ニーベルンゲン伝説]で悲劇的なのは、最初の妻ブリュンヒルドのことをジークフリートが忘れてしまうくだりだ。この場合、"妬む女"に魔法の薬を飲まされたせいで忘れてしまうのだが、『太陽と月とターリア』では、王は戯れにターリアを抱いて そのままナチュラルに忘れており、もっとひどい。
【眠り姫】系とは無関係な民話でも、「王子が異界から連れ出した花嫁を忘れて別の娘を妻にする」というモチーフを見かけることがある。王子は冒険の末に素敵で不思議な花嫁を手に入れるのだが、どういうわけか、その花嫁を置いて一人で先に実家に帰る。両親に挨拶して結婚の手配をしてくるとか、何か物を取ってくるという理由で。すぐに戻ると言うのだが、ブリュンヒルデが二人の不幸な未来を予測していたように、花嫁も不吉な未来を予見したかのごとく、こう警告する。
「けっして、お母さん(または妹)のキスを受けてはなりません」
しかし、王子は母親(妹)のキスを受ける。途端に、彼は待たせている花嫁のことを忘れてしまうのだ。挙句に別の娘を花嫁に選んでしまうこともある。
どうして、こんなことで花嫁を忘れてしまうのだろう? 一説によれば、母親(妹)とのキスは新しい恋人との性的関係を暗喩しているからだ、という。王子が異界から連れてきた花嫁は、いわば正式な婚姻関係を結んでいない現地妻。王子は彼女から離れて故郷――現世に帰ると、目の前の真新しい女との関係を選んでしまうのだ、と。
これと よく似たモチーフで、男女の待つ側・迎える側が逆転しているものがある。
ある男が、獣に変えられていた王女の魔法を解き、彼女と結婚の約束をする。王女は両親に話して結婚の手配をすると言って一人で自国に戻り、男を迎えに来る場所と日時を指定する。立ち去るとき王女は忠告する。「迎えに来たとき、決して眠っていてはいけませんよ」と。ところが その時間、男はどうしても起きていられない。王女は眠っている男を起こすことが出来ず、立ち去る。これが三度繰り返されて、ついに王女は永遠に去り、別の男と結婚することが決まる。男は王女を取り戻すために長い旅に出なければならない。(『フランス民話より ふしぎな愛の物語』 篠田知和基編著 ちくま文庫 1992./『白いやまうずら』『スペインの王女』『二文のヤニック』)
ここでは、"忘却"と"眠り"が入れ替わって現れている。女は忘れずに三度も迎えに来るのに、男の方はその度に(決して目覚めず――死んだように)眠っていて、応じられない。というのも、男の側に別の"妬む女"がくっついていて、約束の日時の度ごとに"眠りの果実"を食べさせているからである。いけない、と思いながらも、最後まで男はそれに抗えず、毒リンゴを食べた白雪姫のように地に倒れて眠る。"母親のキス"と同じように、第二の女に食べさせられる禁断の果実が、男の浮気、別の女との情事であることは明白であろう。
失われた夫を冥界に探しに行く妻の話には、このモチーフの変形と思われるものが良く見かけられる。
禁忌を破ったために異類の夫が冥界に去り、妻は苦難の末に夫のいる城に辿り着く。しかし夫は既に別の妻か婚約者を得ている。女は胡桃の中などから宝を取り出して、夫の今の妻から「三日間夫と同じ寝室で寝る」権利を買い取る。しかし、今の妻は夫に睡眠薬を飲ませているので、夜、女がいくら話しかけても夫が目覚めることはない。けれど最後の晩、第三者から毎晩起こっていることを知らされた夫は睡眠薬を飲まないでおき、ついに二人は再会して、夫は今の妻を捨てて前の妻とよりを戻す。
それにしても、王子は「自分から母親(妹)にキスをする」のではなく、「強いて向こうから望まれて仕方なくキスをする」ようなニュアンスで語られることが多い気がする。王子が古い妻を忘れるにしても、誘惑して忘れさせたのは女の方だ、という言い分である。誘惑した女は魔女だったとされることも多い。[ニーベルンゲン伝説]では、実際、新しい妻かその母親が魔女的存在で、ジークフリートに忘れ薬(惚れ薬)を飲ませている。女を捨てた男に罪は無い、という語り口は、女の視点から見ているとあまり面白くはない。
『太陽と月とターリア』では、嫉妬した正妃がターリア母子を殺そうとして逆に処刑される。本当に悪いのは、正妃がいるのに行きずりのターリアに子供を産ませた王であろうに、物語の語り口は正妃に非があるかのようになっている。なにしろ、彼女は王に「裏切り者」と言われて処刑されるのだ。何があろうと黙って従属しなければ王にとって裏切り行為だったらしい。『眠りの森の美女』になると、正妃は実母に入れ替えられて「嫉妬して当然」な設定は外され、しかも元から人食いだったとさえされて、「殺されて当然」なキャラクターになり下げられてしまっている。しかし、嫉妬のあまり「ジークフリートを殺して」と口走ったブリュンヒルデが憎めないように、正妃(母親)がただの悪役・魔物キャラであるとは、私には思えない。(なお、グリムはこの後半部を『いばら姫』から削ったが、初版本の時点では後半部も『邪悪な義母』というタイトルで独立させて収録していたそうだ。グリム以外でもこの後半部が独立したような民話を読んだことがあるので、あるいは、元々別の話だったのかもしれない。)
とはいえ、英雄が異界の花嫁を"忘却"する理由を「別の女との浮気」以外に見出すことが出来ないわけではない。
成人のための通過儀礼として、少年が擬似的に死んでから青年として甦ったことにされる儀式が世界中で行われていたことは、先に述べた。この際、"死から甦った青年"が過去の一切の記憶を失ったように振舞う場合があったというのだ。コンゴーのボマ地方では、成人式を受ける若者は一通りの試練を受けたあと仮死状態になり、模擬的に埋葬された。その後に大人として蘇生するが、その時には自分の名前をはじめ過去の一切の記憶を喪失したように振る舞い、大人としての新しい名前を授かったという。日本でも、かつて士族階級の男子は成人すると元服名を付けたが、これにも「新しい人間に生まれ変わった」という意味があったのだろう。ロシアの民話などを見ていると、異界から戻った英雄がどんなことに対しても「知らない」と答えるモチーフがある。転生した者は前世の記憶を失っているはずだ――という信仰が広くあったのだろう。つまり、異界から帰還した英雄は、死ぬ前もしくは死んでいた間のことを忘れずにはいられないものなのだ。逆に言えば、"忘却"しない英雄は転生したとは言えず、"冥界の富・大人として正式に結婚する資格"を得ることは出来ない。そのことを、冥界の女神である花嫁はよく知っているのである。
「君は、ここでちょっと待っていてくれないか。一足先に行って、父上と母上に挨拶してくるから」
「イワン王子、あなたは私を忘れてしまうわ!」
「忘れるものか」
「いいえ、イワン王子、あなたは忘れてしまうのよ! でも、二羽の鳩が窓にぶつかったら、私を思い出してね!」
イワン王子は、一人で御殿へ行きました。両親は王子を見つけると、飛びつき抱きしめ、キスの雨を降らせて喜びました。イワン王子もあまりの嬉しさに、賢いワシリーサのことを綺麗に忘れてしまいました。
『ロシアのむかし話〈1、2〉』 金光せつ編訳 偕成社文庫 1991./『海の王とかしこいワシリーサ』
『ニーベルンゲンの歌』で、ジーフリトがグンテル王に代わって求婚の難題をクリアし、果ては初夜までこなしてしまう……というくだりは、恐らく多くの人にとって異様な展開であるかと思う。初夜の契りを夫以外の男が行う。それも、夫公認で。一体これは何なのか?
実は、これも実際の慣習を元にした物語であるらしい。かつては「初夜権」というものが実存していたからだ。
初夜権とは、集団の上位の男――王だとか領主とか長老とか家長とか仲人が、花婿に代わって花嫁との初夜をこなす、というものである。どうやら古代から世界各地にこの慣習は存在し、19世紀ごろにも、少なくともロシアや日本にはあった。
紀元前の『ギルガメシュ叙事詩』にはギルガメシュ王の暴政の一つとして「全ての民の初夜の権利を持つ、他人の妻を犯す」ことが挙げられているし、古代ローマでも領主は特権として初夜権を持ち、逃れるためには結婚税を払わねばならなかった。九世紀のスコットランドのユーエン三世は「貴族の男性は全ての庶民の妻を自由に犯し、領主は領内に住む全ての女の処女を奪ってよい」という法を制定した。キリスト教会はこれを「貴族の当然の権利」として支持した。結婚式から三夜以内に花婿が花嫁と寝ることは「神の祝福を汚す肉欲的行為」であるが、領主の肉欲は「正しく相応しいこと」であるとし、領主より先に妻と寝た男は法で罰された。――全く、忌むべき悪法である。
何故こんなことを行ったかについては諸説ある。「単に、男が好色だから」「女性の所有権と土地所有権が等価とされていたため、領地に住む女たちは領主の所有物とみなされた(女性は家畜と同じに男の財産の一つとされ、人権が認められていなかった)」だとか。いずれにせよ、女性の人格を無視した権力ある男性の横暴と捉えられがちであり、実際、その一面もある。スコットランドの例や、かつてのアメリカの黒人奴隷の妻や娘たちになされた横暴などは、まさにそうだろう。
けれども、また別の見方もある。現在、処女は神聖視される傾向があるけれども、男性の童貞は「早く捨てる」ことが望まれるのが一般的である。結婚する時に童貞のままの男性は、暗に馬鹿にされる傾向があるだろう。――ここに、初夜権の残る一面に関する答えは隠されているのだ。つまり、(現在童貞に関して考えられているのと同じ感覚で)結婚に臨んで男性を知らないままなのは恥ずかしいこと、一人前とは言えないとも考えられていたのである。
どうして処女であり続けるのは恥ずかしいのか? ――それは、結婚する者は性的にも成熟しているべきと考えられていたからだ。
中山太郎の『日本婚姻史』に「南方熊楠氏が紀州の兵主で目撃されたのに、十四歳くらいの少女が風呂屋へ来て、十七、八歳の木挽の少年を付けまわし、種臼きってくだんせ、としきりに言うていた。この年頃になっても処女でいるのを大恥辱に思っているらしいとのことである」とある。「種臼きって」とは処女を奪って、という意味だ。このように考える風潮が確かに存在していたということである。
ユダヤ教や中近東辺りの国々などには割礼の風習がある。概ね、男児の生殖器の包皮を手術で切り取って大人の造作にすることだが、これも「大人になるには肉体的にも成熟しているべき」という思想が一端にある風習だと思われる。トルコでは十歳前後の男子にこれを施し、豪華な帽子と晴れ着を着せて親戚に挨拶して回り近所を車で練り歩くらしい。これが一種の成人式で「祝って披露すべきこと」であることを示していると考えられるだろう。同じように、処女膜を道具や手の指で切開する習俗もあった。日本の愛媛県北宇和郡の山村において、かつては娘が十四、五歳になると親は娘が早く女にならないものかと心配した。中には、酒を買って人に依頼しにいった親もあるという。このことを「アナバチワリ」といって、この依頼される人は村の中でなんとなく決まっていた。大抵は物静かで無口な男であり、常々畳や板に擦り付けて爪を磨いている。そうして三日ほど泊まらせて娘を"女にした"という。また、娘たちに対しては「
道具や手の指を使うのではなく、実際に性交することで破瓜する風習もある。日本ではこれはやはり「アナバチワリ」系の名で呼ばれることが多く、島根県簸川郡北浜村(現、平田市)では「十二、三歳の娘がまだ娘にならないうち(初経前?)に五十以上の後家爺さんに
念のために補足しておくと、男子の場合も女子と同じように、否が応なく年配者のところに連れて行かれて筆おろしをさせられていた。成人して若者組に入ると先輩に娘宿に連れて行かれて年長の娘に教えてもらうとか、お堂に村の既婚女性が集まって、集団で雑魚寝して少年たちに性の手ほどきをしたとか。なかなか上手くいかない若者もいて、一人前にするのは大変だったそうである。男性の場合、後の時代には風俗の女性のところに行って済ませることも多くなったようだ。
以上のように、処女を捨てておかねば結婚できない風潮があったわけだが、やがてこの風習は結婚の儀礼とまとめられ、結婚の前夜や初夜に花嫁が花婿とではなく、花婿の友人や舅や仲人と床を共にする、という形をも生み出した。
淡路の出島では結婚の前夜に花婿の最も親しい友人が花嫁を"天神様"と俗称される鎮守の社に誘い、そこで相姦する。陸前国社鹿郡石巻町近くの福井村では、結婚の前夜、かねてから花嫁に目をつけていた部落内の青年に花嫁が身を任せる。青年は花嫁を誘い出してもいいし、花嫁の家に忍び込んでもよい。家族もこれを公認していた。ボスニアでは、婚礼に出席する男性客は一人ずつ(夫婦の抱擁を暗喩して)花嫁を壁に押し付ける習慣があった。
ここにはまた、村の娘はその村の若者たち全体の共有物である、という思想も現われている。結婚の前に娘は若者たちに分配され、ようやく夫個人の占有とするのが許されるのである。奥州のある村では、花嫁は結婚の前夜に親戚中の未婚の男子と交わらねばならなかったという。
豊後国日田郡夜明村大字夜明では、毎年八月十五日(明治以前は旧七日)に
村の娘たちは村の若者組の管理下に置かれ所有されており、それを拒めば時には軟禁、ひどいときには村からの放逐もありえた。他の村の男と恋仲になっても大変で、村の若者たちに迫害された。これを許してもらうためには酒などの物品を上納せねばならなかった。
司馬遼太郎の『余話として』(文春文庫)に「話のくずかご――村の心中」というエッセイがあり、江戸初期の大阪辺り石川村大ヶ塚の庄屋の書き残した心中事件について述べている。村の男女が心中したが、男が女を殺した後に死に切れずに逃げ、その男を捕まえて村内裁判になった話である。ツナという十六歳の娘には八郎兵衛という恋人がおり、夜毎の夜這いを許している。しかしツナは六キロほど離れた須賀村に一年間奉公に出ることになった。恋しさを抑えきれない八郎兵衛は須賀村に通っていくが、須賀の若衆どもがこれに気づき、たとえ他所から来た奉公人にせよ村の娘は村の若衆の占有だとて、道に待ち伏せて嫌がらせをした。(これを書き残した庄屋は「道なき世にもあるかな」と憤慨している。)仕方なく、八郎兵衛は酒を買って上納したが、貧乏な家の出でたちまち金が底を尽き、ついに思い余ってツナに心中を持ちかけたのだった。
羽前国(現、山形県)の米沢市に近い萩村では、媒酌人がまず花嫁を"貰い受けて"自宅へ連れ帰り、三晩の間は自分の側で寝起きさせてから、百八個の丸餅を作り、それを背負って花嫁を連れて花婿の家に行って結婚式を挙げさせたというし、青森県庁に収蔵されていた明治七年三月の日付のある文書には「元南部領七戸通三沢村という村に限り、男女が結婚する時になると、
このように、花婿以外の男性が先ず花嫁と床を共にするわけだが、中には男女一組の仲人や年配の女性一人が初夜の部屋で一緒に寝ることもある。下野国(現、栃木県)塩谷郡栗山郷では、婚礼の夜、花婿側も花嫁側もそれぞれ「お連れ様」なる者を同行させる。お連れ様には両親の揃った同性の者を選ぶ。初夜の晩、お連れ様は花婿花嫁と同じ部屋に寝るのが礼儀とされていた。津軽地方には「おくり婆様」なる役があって、花嫁が首尾よく"貫通された"のを見届けて親に報告するのが役目だったという。
以上、「性的にも成熟しなければ大人になったとはいえない――結婚資格は得られない」という視点で、結婚以前の破瓜、初夜権についての事例を挙げてみた。けれども、また別の解釈もある。
たとえば、未開の民族の間では破瓜の際の血が不吉なものとされていた、などという。花婿の健康に害を与えるとか、これが精液と混じると不妊になるとか。
恐らく、これは男が女の血の呪力に対して抱いている恐怖の表れである。古くより、出産能力を持つ女性は男性をしのぐ魔力を持っていると世界的に信仰されてきた。男をしのぐということは、男を害することも出来るということだ。端的にいえば、「女に食い殺される」という根源的な恐怖が、ここでの男にはあるのだと思われる。多くの神話において、またそれらの神話に関連する儀式においても、女神は夫と愛し合った後に彼を殺して(殺されて)、その血に浸って喜悦し泣き叫び、受胎して次の夫を産み落として(甦らせて)いる――結婚によって夫は妻に殺されるものなのだ。
『ニーベルンゲンの歌』で、噂に聞いた女王プリュンヒルトをなんとしてでも妻にしようとイースラントに向かったグンテル王は、いざ女王の持つ"男をしのぐ力"を目の前にすると、恐れおののいてこう漏らす。
「これはなんとしたことか。地獄の悪魔といえども、これには命を全うするわけにはいくまい。俺が生きてブルグントの国へ帰れたら、もはや二度と こんな女に思いをかけることはなかろう」
民話の中にも、男が花嫁との初夜を恐れるモチーフは存在する。
ある男が素晴らしい花嫁を得る。ところが初夜の床で、どこからともなく恐ろしい怪物(大抵の場合、蛇)が現れ、男に襲い掛かる。話によっては、美しい花嫁は彼以前に幾人もの男性と結婚していて、しかし初夜の晩に花婿は皆死んでしまったのだと語られる。プリュンヒルトへのそれまでの求婚者が、皆彼女との勝負に負けて殺されていたように。プリュンヒルトの例のように、結婚するまでの難題を語る話は多いが、ここでは初夜をこなすことが難題なのだ。
この蛇はどこから現われるのだろうか? 答えは、パプア・ニューギニアの民話を読むと想像できる。ここでは、経口妊娠で女の胎の中に蛇が宿って、女陰から自由に出たり入ったりしたと語られている。男がその首を切ったので血が滴るようになって月経が始まり、胎内の蛇の尾から子供が生じるようになったと。
そう、初夜に花婿が死んでしまうのは、恐らくは挿入しようとすると女の胎内から蛇が出て、花婿を噛み殺すのだ。
ロシアにもそれを裏付ける民話がある。
父親を亡くした若者が仕事の元手金を持って旅に出る。道中、借金を残して死んだからといって人々が死体を殴る蹴るしているのを見て、元手金で死体を買い取り、葬式を出す。無一文になって先へ進むと、見知らぬ男が追ってきて道連れになり、「私を叔父と思って敬い、言いつけ通りにすれば何でも上手くいく。手に入れたものは全て半分ずつに分けよう」と言うので承知する。
やがて他国に着き、仕事を求めて市場に立っていると、この国の王が来て「娘の婿になれ」と言う。実は王女は既に六回も結婚していたが、いつも初夜に婿が死んでしまうのだ。周囲の人々は死にに行くようなものだと止めるが、不思議な叔父は結婚を勧めて、「私を初夜の寝室に呼ぶように」と言いつける。結婚初夜の深夜、新郎新婦がぐっすり眠っていると、どこからか怪蛇が飛んでくる。そこに叔父が飛び出して切り殺して綺麗に片付けてしまう。翌朝、若者が無事なのを見て王は喜び、盛大な祝宴を開く。
少し経って若者は故郷に帰りたくなり、妻と叔父とともに出発する。かつて叔父と出会った辺りに来ると、叔父は約束の分け前を要求し、王女の体を真っ二つに切る。すると中から小蛇がごっそり出てきて、叔父はこれをすっかり退治して綺麗に内臓を洗い、水を注ぐと、王女は以前より美しくなって生き返る。叔父は別れを言うと消えてしまい、若者は本当に幸せになる。
(『決定版世界の民話事典』 日本民話の会編 講談社+α文庫 2002. ) 話型参考-->『縛り首による死の回避』
女性器は普通の口に対して"下の口"とよく俗称されるけれども、女性器に口のように歯が生えていて、挿入された男性器を噛んで男を殺す、という【有歯膣】の伝承も存在している。例えば台湾の蕃族や日本のアイヌ族、北米などに見られる。
●美しい娘が結婚するが、夫は一夜にして死ぬ。彼女の女性器には四本の歯があるのだ。これを知った母は娘を朱塗りの箱に入れて海か川に流す。流れ着いた娘を男たちが発見し、酔わせて歯を挟み切る。挟み切られた歯はトンボ玉になった。(あるいは、歯を砥石で磨り減らした。)
まずは竹の棒や犬などで試し、最後に人間の男が試す。何事もなく、娘は安全になったことが確認された。彼女は地元の頭目の妻になったという。(台湾)
●北海道から海を隔てたところに女の集落 という島があり、男はおらず、戦を好む女戦士たちだけが住んでいる。彼女たちの膣には歯があり、鹿の角のように秋に抜けて春に生える。最上徳内が行って短刀の鞘で試したところ、歯型が付いたという。女たちは鎖鎌で向かってきたが、逃げのびた。
沙流海岸に時々黄檗 の皮が流れ着くのを、アイヌの人々は"メノココタンの浮 "と呼ぶ。(アイヌ)
●五人の男がアザラシ漁に出た。船長は食人族に食われてしまい、残る四人は女だけの島に辿り着いた。女たちはもてなして泊めるが、危険だから変な気は起こさないように、と忠告する。しかし二人の男はそれを無視して女たちの寝床にもぐりこみ、陰歯に男根を噛み切られて死んだ。三人目の男は赤い砥石(または海岸で拾った白い石)を挿入し、歯を折ったので無事だった。女たちは喜び、生き残った二人の男を二人の死体と共に送り返したという。(アイヌ)
同じような伝承は日本の津軽や能登にもあり、木や黒銅製のモノを挿入して歯を砕いてしまう。その他、日本では『嫁の歯』という民話でも伝わっていて、ここでは既に笑話化されている。
●互いに"うぶ"な男女が結婚することになった。周囲の人は、女には「男の人のアレって、杵みたいに大きいのよ」と教え、男には「女のモノには歯が生えているんだぜ」と教えた。さて、初夜の晩、二人は互いに教えてもらったことは本当なのかと疑い、男は膝で試そうと、女は指で確かめようとした。そして互いに「本当だった」と勘違いし、怖くなって そのまま離婚してしまったという。(日本)
先に、"冥界へ下ること=怪物に呑まれること=女神の胎内に入ること"と述べたけれども、"女神の胎内への道=怪物の口"とすれば、そこに歯があるとイメージするのは容易いことだろう。伝承には、冥界への入り口として、しばしば"打ち合う岩、開く山"が現れるが、開いたり閉じたりする岩門は、やはり"口"のイメージである。
女に男性器を噛み切られる、というのは、男にとって潜在的な恐怖なのだろうか? 東南アジアや台湾などには、結婚直前の娘の前歯を抜いたり削ったりする風習があったそうだ。夫を傷つけないため、だそうである。
民話の中の王子は、素晴らしい花嫁を得るために超自然的援助者の助力を仰ぐことが多い。グンテル王がジーフリトの助けでプリュンヒルトを得たように。そして、ジーフリトがそうしたように、超自然的援助者は初夜の床にも入り込んでくる。何故なら、花嫁は大変危険な存在だからだ。先に挙げたロシアの民話のごとく蛇が襲ってくることもあるし、プリュンヒルトのように暴れることもある。ロシアの他の民話では、花嫁がずっしりと重い手を花婿の胸に乗せて窒息死させようとすることも多い。超自然的援助者は王子を護るために初夜の寝室に同席させてくれることを望む。あるいはハッキリと、「私をあなたの代わりにベッドで寝かせてくれ」と懇願する。日本の習俗の仲人の様にである。
こうして、花婿の身代わりとなった超自然的援助者は襲ってきた怪物を倒し――同時に花嫁の"女"を征服するのだ。彼は花嫁を壁に投げつけたり、三種の金属の捧でさんざんに殴りつけたりする。そうしてベッドの上に放り投げ、『ニーベルンゲンの歌』のジーフリトのように、無抵抗にしてしまってから花婿に譲り渡す。
「さぁ王子、ベッドに横たわりなさい。もう何も起こりません!」
この暴力は、女を無力にする、という点で、陰歯を折る行為と同質のものかと思われる。
男を知らない女は、男に屈服しない。従順でない。男の知らない生命の神秘に関わる秘術を知っている。魔女だ。ブリュンヒルデや処女王や青い目が強大な魔力と武力を持った女王で、男無しでも確固として立っていたように。アマゾニスのように、母系社会を作り父系社会とは相容れない女たち。メス蜘蛛か古い神話の女神のように、彼女たちは男と交わった後にそれを殺害すると想像される。しかし、殴りつけ、性で支配すれば、簡単・確実に彼女の何かを破壊し、従わせることが出来る。
けれども、魔女と聖女が相似物で、時にはまるで見分けがつかないように、恐ろしい呪力を持った夫殺しの女神は、反面、清らかな神力を持った神女でもある。何故、処女の破瓜の血には呪力があるとされ恐れられるのか――それは、処女が本来は神の花嫁であり、それを一般の男が犯すことを畏れているのでもある。処女――神女は破瓜されてただの女にならなければ一般の男の花嫁にはなれないのだが、ギリシアでも言われているように、「女神に愛された男は死ぬ」定めなのである。普通の男がそれを行い、破瓜の血を見れば、即ち死ぬだろう。
千葉県君津郡では、娘の結婚が決まると父親か母親が村の若者頭に酒を一升持っていって「うちの娘はまだ生娘なので、どうか娘にしてやって欲しい」と頼んだという。この地域では「生娘は怖い、生娘を嫁にもらうのは大変怖いことだから、娘にしてもらわねば困る」と言っていた。そして娘にする役の若者頭は「エビス神」とか「道祖神」などと呼ばれることがあったという。
カンボジアで処女を破る役を与えられているのは僧侶であり、日本でも年寄りにその役が与えられるのがよく見られる。それは、彼らが処女の血の呪力に対抗できる呪力者〜神に近いものであることを示すと同時に、彼ら自身が巫女の夫たる"神"の化身であることを示唆している。いや、千葉県君津郡の若者頭の例のように、それが村の若者であっても通りすがりの旅人であっても、処女を抱いているとき、彼らは"神"の化身であると考えられていたのだ。
以上のような信仰は、民話伝承でしばしば未婚の娘が怪物(龍)に連れ去られたり生贄に捧げられたりして、塔や洞窟で怪物と一緒に暮らしている――その妻になっている点にも現われているかもしれない。彼女たちは一度神婚し、その後に初めて普通の花嫁になれるのだ。
性交を神婚と見る思想は、神殿娼婦を生み出した。
ヘロドトスの『歴史』によると、バビロニアの女たちはどんな身分の者であろうと必ず、一生に一度はミュリッタ(愛の女神イシュタル〜ヴィーナス)の巫女として、神殿で見知らぬ男と交わる風習であった。彼女たちは座って待ち、男たちは通路を通ってきて好みの女を物色し、選んだ女の膝に銀貨を投げる。金額は決まっていない。女の方には拒否権も選択権もない。選ばれるまでは帰宅は許されず、美しい女はすぐに帰宅できたが、そうでない女は長い間そこにいなければならなかった。この交わりはあくまで一度のもので、もしも後で交わった男が再び誘いをかけてきても、女は決して応じることはなかったという。同じような風習はエジプトやギリシアを始めとする地中海の国々、インドでもあったとされる。
神殿娼婦という風習は、見知らぬ男――神の化身と神婚し、豊穣(子宝)の力を得ることが目的だと思われる。日本にも祭礼の日に村中の者が自由に乱交し拒否できない風習のある地域が多数あったが、そのうち茨城県北相馬郡文間村大字立木の蛟[虫罔]神社の祭礼では、多くの男と交わるほど体が丈夫になる、いい婿が得られるといって、既婚未婚の差なく、女たちがその祭礼中誰彼かまわず肌を許していたという。これらは「縁結び、子宝の神」の行事とされ、神に許されているアソビなのだから倫理的にも問題ない、とされていた。このように、神殿娼婦たちは快楽や生活の糧のために春をひさぐのではなく、女神の化身として豊穣を呼ぶ神婚――神事を行っていたのである。
処女は神の妻であり、人間の夫の前に神と神婚せねばならない。三河国南設楽郡長篠町付近の村落では、結婚の当夜は「おえびす様にあげる」として夫婦は同衾しなかったし、能登国の鳳至・珠洲の村では結婚式に花婿は列座しない。九世紀のスコットランドのように、夫は神に初夜権を譲り渡し、妻に触れることを遠慮するのである。
日本では「初子は親に似ない」という言葉があるそうだが、初夜の交わりによって生まれた子は、神――一族の祖霊から授かった子、という扱いだったことだろう。
[ニーベルンゲン伝説]や[二人兄弟]に「純潔の刀」と呼ばれるモチーフが出てくる。男女が同じ床に寝るとき、二人の間に抜き身の剣を置いて、花嫁の真の夫に対して操を立てる、というものである。実はこれは、西欧において祖霊をかたどった木彫りの人形を、新婚の床で花婿と花嫁の間に置いた慣習から来ている、という説がある。木彫りの人形を新婚の床に入れるのは、花婿より先に祖霊(神)が花嫁と交わることを意味している。シグルドは岩山で三日ブリュンヒルデと床を共にして、しかし彼女に触れないが、恐らく、この概念は実際にあって、結婚から三日目までは花婿は花嫁に触れることが出来ないとされていたのだろう。
主な参考文献
『ねむり姫の謎 糸つむぎ部屋の性愛史』 浜本隆志著 講談社現代新書 1999.
『婚姻の民俗 東アジアの視点から』 江守五夫著 吉川弘文館 1998.
『遊女と天皇』 大和岩雄著 白水社 1993.
『魔法昔話の起源』 ウラジミール・プロップ著、斎藤君子訳 せりか書房
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