【手無し娘】は、シンデレラ系話群のうち、特に[千匹皮]の系統に近い。皮をかぶる(灰まみれになる)代わりに手を切られると考えればわかりやすいだろう。
日本の異伝の中には、はっきりシンデレラと結びついているものもある。前半は「米福・粟福」型で、”シンデレラ”に縁談が来ると、継母は実娘の方を嫁にやりたいばかりに、”シンデレラ”の腕を折ってしまう。(新潟) あるいは「姥皮」型で、若様と結ばれてめでたしめでたし、の後で、若い男と浮気をして夫に腕を切られて追放され…と続けるものもある。(愛媛)
面白いのは香川県の異伝で、母に両手を切られてこき使われていた娘が海岸に打ち上げられていた魚を助け、魚の言う通りに湖水に切れた手をつけると元の通りに生え、殿様と結婚する。[魚とシンデレラ]を思わせる。
手無し娘に関しては様々な解釈や考え方があるようだ。たとえば現実にこんな残虐な事件があってそれを元にした、など。また、この物語から身障者観を探ろうとする説はよく見かける。
だが、"腕を切(られ)る"という行為には、ただ「現実を引き写した」という意味しかないのだろうか。
民話伝承には、両足を切られたり両目が潰れたりといった、肉体の一部を欠損するモチーフがよく現れてくる。往々にして、それらは"死"の婉曲的表現、暗喩として現れることが殆どである。片目、片足だけが欠損している場合もよくあるが、それは半分だけ死んだ者――冥界と行き来できるシャーマンとしての能力を備えた者、という意図があると思われる。
では、両腕を切られている手無し娘は、一体、何を暗喩しているのだろうか。
先に、【手無し娘】は[千匹皮]の系統に近いと書いたが、[千匹皮]の主人公たちは扮装して己自身の姿を醜く変え、家を出て森や山をさまよう。これは、彼女たちが一度死んで冥界に入ったことを暗喩しているのだが(異形・獣の姿は死霊・祖霊を象徴している)、これと同じだとすれば、手無し娘が手を切られ、悪い表現だが異形になって家を出るのも、同様に"死んだ"ことを暗喩していると考えることが出来る。
しかし、千匹皮たちの祖霊への変身に対し、手無し娘のそれは、いかにも不完全な感じがする。手の無い娘は身体の不自由な娘でしかなく、獣でも植物の精でもないからだ。
私個人の感想だが、手無し娘には「殺されて鳥に変身した」というイメージが隠れているように感じる。手を切られて家を出た娘は果樹園に入り込んで口で果実を食べて盗むが、これは、例えば『ナルト叙事詩』のエフセルテグの物語にあるように、夜毎に生命の果実を食べ尽くす神鳥――白鳥乙女のイメージに相似しているように思えるからである。グリム版などで、朝になると姿を隠し、夜になると食べるので、果樹の持ち主が怪しんで果樹を見張る点も、その印象を強める。それに、いささか思い込みかもしれないが、手を失って口で直接果実をかじる姿は、鳥のついばむ姿そのもののようにも思える。
実際、日本の静岡の異伝では、手なし娘は鳥に養われ、鳥がみかんを盗っているのをみかんの持ち主の息子が発見し、鳥に事情を聞いて娘を妻にする。鳥は亡母の化身とも言えるし娘自身の変身とも考えられるだろう。
オレンジの乙女や蛇婿の妻たち、一部のシンデレラや継子たちは、"妬む女"に殺害されて鳥に変身し、その後に女の姿に再生して、夫と真に結ばれる。手無し娘も本来はその系統で、娘が殺害されて鳥に変わるところが、ファンタジーのヴェールが何枚か剥がれ落ちて、"手を切られる"という、かなり生々しく"死"に近い表現で語られてしまったものではないだろうか。
ところで、ペンタメローネ版の「手無し娘」では状況が他とは違っていて、実兄の求愛を退けるため、娘が自ら自分の手を切って兄に送りつけることになっている。「ハンチ物語」と同じで、自分の身を守るために自分自身を醜く変えたわけである。インドの聖者物語にも、隠者になった王子に人妻が「あなたの目に見つめられた者は幸せですわ」と色目を使うと、王子は直ちに己の片目を抉り取って差し出し、「この肉塊のどこがいいか」と言い放った、というものがあるという。(『ペンタメローネ[五日物語]』 バジーレ著、杉山洋子・三宅忠明訳 大修館書店)
[千匹皮]系では、結婚によって、異形になっていた娘は再生を果たすが、【手無し娘】ではここからがいよいよ苦難のピークとなる。手無し娘は結婚して健やかな子供を産むが、夫はちょうど長期の留守にしていて、報せは手紙によって行われる。ところが、この手紙が"妬む女"によって途中で書き換えられてしまい、手無し娘は赤ん坊共々、婚家を追い出されてしまうのである。
手紙によって人の運命を左右するモチーフは、伝承の中に何パターンか見られる。
【手無し娘】に現れる手紙のモチーフは以上のどれでもなく、第四のパターンになる。
上の三つのパターンが、全て手紙に元々「悪いことが書いてある」ので、「悪いことを良いことに書き換える」のに対し、【手無し娘】の場合は、手紙に書いてあった「良いこと」が「悪いことに書き換えられてしまう」、という逆パターンになっている。
手無し娘は、手紙を「獣または化物の子を産んだ」と書き換えられ、婚家を追い出されてしまう。
似たようなモチーフは[その後のシンデレラ〜獣産みの濡れ衣型]にもあるが、こちらでは実際に子供を獣とすり替えられてしまい、本物の子供は川に流されたり土に埋められたり獣に食わせられたりしてしまう。捨てられた子供は一度死ぬわけだが、その後再生し成長して現われ、獣産みの罪で虐げられていた母を救い出す。【みどりの小鳥】とも共通するモチーフだ。
また、[その後のシンデレラ〜子食いの濡れ衣型]のように、生まれた子供を"嫉妬する者"が殺し、その罪を母に擦り付ける話もある。こちらでは殺された子供は再生しないことが多いが、「あなたはだれ?」や「伯爵のお姫様と水の精」のように、死んだ子供が後に再生する場合もある。
【手無し娘】のクライマックスは、背負っていた子供が水に落ちて、あっ、と無い手を差し伸べたときに手が生える、というシーンだが、重要なのは子供が水に落ちるという点ではないだろうか。これには、本来は「あなたはだれ?」のように、殺された子供が生命の水を潜って再生する、という意味があったのではないかと考える。
これらの、子供が害されて母に濡れ衣が着せられるモチーフは、子供の再生の奇跡を語ることが本来のテーマであろう。
【手無し娘】には、家を追い出されて野をさまよう場面が結婚を挟んで二度も出てくるのだが、先に述べたように、これは"死"を暗示している場面だと思われる。中国の「両手を失った莫里根治」「淑娘と陸青」には、"死"のイメージをより強調させたのか、婚家を出された手無し娘が絶望して川に身を投げるくだりがある。日本の「鉢かづき姫」にもやはり同様のシーンがあって、関連を思わせ興味深い。
さまよう手無し娘は偶然か、あるいは超自然的援助者に教えられ、ある水に腕を浸す。すると、切られていた腕が生えてくる。腕の無い状態が"死"を暗示していたのだから、まさに、娘はここで甦ったのである。「両手を失った莫里根治」では、入水自殺して水神に救われると両手が再生しており、より分かりやすい形になっている。
腕を再生させた水が、死者を再生させる生命の水であることは言うまでも無い。
とはいえ、話が伝えられていく中で、"生命の水"だけでは説得力が弱くなってしまったのか、守り本尊だの観音だのイエスだの天使だのが顔を見せて、奇跡を起こしてやったのは何者か、と聞き手に強調して知らせている。
【手無し娘】は欠損していた肉体が再生する、という誰もが望む奇跡を語る物語である故にか、宗教と結び付けて語られることが多いようだ。日本ではさまよう手無し娘が四国巡礼をしたり高野山にこもったりする話もあり、宗教者の間で語り伝えられたことをうかがわせる。
主な参考文献
『決定版世界の民話事典』 日本民話の会編 講談社+α文庫 2002.
『世界昔話ハンドブック』 稲田浩二 他編 三省堂 2004.
Copyright (C) 2001 SUWASAKI,All rights reserved.
| SEO | 母の日 | 誕生日プレゼント無料レンタルサーバー プロフ SEO | |