■”ひょっとこ”と金の話

 "ひょっとこ"をご存知でしょうか。多分、日本人なら知らない人はいないだろうとは思いますが。

 "ひょっとこ"は、目をむき口を突き出した、こっけいな表情をした男のお面です。よく、福々とした女のお面「おかめ(お多福)」とセットにされています。お祭りのお面屋の片隅で見かけることも多いですし、"ひょっとこ"のお面を着けてのこっけいな踊りもあります。ですから、"ひょっとこ"をただ「こっけいな顔のお面」と思っている人は多いのではないでしょうか。

 しかし、実は"ひょっとこ"には意外な正体があります。――なんと、ひょっとこは「神様」なのです!

 

 "ひょっとこ"は一体どんな神様なのか? それは、岩手県等に伝わる、"ひょっとこ"の面の由来話を読めば判ってきます。

>ひょっとこのはじまり

 貧しいが善良な男が、神的存在に気に入られて富を授けてもらえるようになるが、男の妻が欲を出しすぎたために富を失ってしまう。この筋立て自体は、日本では『竜宮童子』、西欧では『金の魚』などとして見かけるものですが、『ひょっとこのはじまり』では、死んでしまった童子が夢枕に立って自分の顔をかたどったお面をかまどの前の柱に祀るように告げ、それによって家庭の守護神になるという独特の結末が付いています。

 死んでしまった童子の名はヒョウトクまたはショウトクと言いますが、この名は"ひょっとこ"に通じ、"ひょっとこ"は"火男"が転訛したものだと一般に言われています。あの突き出した口は火に息を吹きかけるためのもの。つまり、"ひょっとこ"は竈の火を司る神様なのですね。

 今は火なんて点けるのも消すのもワンタッチ、弱火も強火もツマミひとつで簡単なものですが、昔はそうではありませんでした。火は一度消してしまうとなかなか点けられないもの――貴重品で、火種を絶やさぬこと、また、火勢をうまく操って煮炊きするのは重要なことでした。そんな大切な火が燃えている場所、暖かな食事を作るための竈に神が宿っていると考えられるようになるのは、至極当然のことだったかと思います。火男ひょっとこはその”竈の神”。東北を中心とする地域で、竈の前の柱に"ヒョウトク――ひょっとこ"をモチーフにした"釜神さま"の面を飾るのがよく見られたそうです。(ただし、釜神様の面は"ひょっとこ"の面とはまるで似ていません。怖くていかつい憤怒の顔の男です。)ただ、お面そのものだけではなく、お面を掛ける竈の前の柱を「火男」「釜男」「竈仏」などと呼んだりもしたようですけれど。この柱に掛けられるお面は、柱に宿る神様に与えられた"顔"だったんでしょうね。

>参考外部リンク「カマ神様ホームページ

 

 ところで、ヒョウトクの死因は火箸でへそを深く突かれたことでした。そうして死んだヒョウトクを「竈仏」として竈に祀る。――火で死んだ(殺された)者を火を燃やす竈の神として祀り上げているわけです。考えてみると少々意味深かもしれません。というのも、日本や中国の金屋たち――タタラ師、鋳物師、鍛治師らの伝説には、釜(溶鉱炉)での人死にが火勢を強めた、とするものがよく見受けられるからです。中国の『呉越春秋』等にある干将・莫耶の故事が最も有名でしょうか。

 優れた鍛治師または鋳物師の男が、上の命令で立派な刀剣または鐘を造ることになる。しかし、金属がうまく溶けずに造れない。期日が迫り、思い余った男は我が子を煮え立つ溶鉱炉の中に投げ込んでしまう。または男の妻や娘が自ら飛び込む。するとたちまち金属が溶けて流れ、無事に刀剣または鐘を作り上げることができたという。

 この伝説にはまるで根拠がないというわけではなく、実際に人間の骨に含まれる成分が金属の融点を下げて溶けやすくするのだそうで、昔の金屋たちは経験的にそれを知っていたのだろうといわれています。たとえば、死体を溶鉱炉に投げ込むなどということはよく行われたと思われ、現に、日本の江戸時代、タタラ場は死体の焼き場も兼ねていて、棺の蓋を燃やすと鉄が溶けやすくなるなどと言われていたそうです。

 古くより日本のタタラ場・鍛冶場では赤不浄(経血・出産にまつわる穢れ)は厳禁でしたが、黒不浄(死にまつわる穢れ)はむしろ歓迎されていました。その由来としては、こんな話が伝えられています。

 金屋子神(金屋たちが信仰する神)自身、あるいはその化身または部下である村下(タタラ場の頭領)がタタラ場を回って指導していたところ、犬に吼えかけられて追われて、転倒して死んでしまった。指導者を失ってタタラ場は停止し、弟子たちが途方に暮れていると、託宣が下り、村下の死体を元山の柱(タタラ場の主柱)に立て掛けて鉄を吹け、という。その通りにすると鉄がトロトロと溶けて沸きに沸いた。それ以来、タタラ場では黒不浄を忌避しなくなったという。

 注目すべきは、村下の死体をタタラ場の柱に立て掛けている点です。竈の前の柱に死者をかたどったお面を掛けることと、かなり似た印象を受けます。神を数える単位が「柱」であるように、元来、日本では柱は神の依代とされていました。その柱に立て掛けられる死体(お面)は、神の具現であるだけでなく、火勢を強くするための生贄だったのでしょうか。

 

 この話で託宣を下しているのは、おそらく"ウナリ"と呼ばれる巫女だと思われます。タタラ場は赤不浄を忌避して女性の立ち入りを厳禁していましたが、唯一、ウナリだけは特別でした。彼女はタタラ場の一角に自室さえ与えられていました。伝承で金屋子神と共に降臨したとも言われるこの巫女は、釜の守護神(金屋子神)と金屋たちを結ぶ重要な存在でした。(後の時代には、ウナリの神性は忘れられ、ただの給仕女になってしまっていたようです。)

 ウナリの存在は、岡山県の吉備津神社に伝わる釜鳴神事の由来、『温羅うら伝説』でも見て取ることが出来ます。吉備津神社の辺りは古くは真金まがね村と呼ばれ、製鉄が盛んだったそうです。

 昔、この地方で温羅という鬼が暴れており、朝廷の命を受けた吉備津彦がこれを退治しにやってきた。温羅は左目を矢で射抜かれ、鯉に変身して川底に逃げたが、吉備津彦は鵜に変身してこれを捕らえ、首をはねて辻にさらした。ところが温羅の首が大声でわめくので、部下の犬飼健いぬかいたけるに命じて首を犬に食わせ、髑髏を後の吉備津神社の釜の下に埋めた。しかし、それでもわめく。そこで温羅の妻の阿曾女あそめを召しだして その釜の火焚きを命じたところ、怪異はぴたりと収まった。以来、阿曾村出身の乙女が釜に奉仕するのが慣習となり、火に掛けられた釜の鳴り響くさまで吉凶を占うようになった。

 阿曾女がウナリですね。なお、阿曾村は鋳物師・鍛治師の村として知られていたそうです。

 ここでは死体を釜の下に埋めていますが、やはり竈(釜、溶鉱炉)とそこに捧げられる死体(殺された神)の関係が現れています。また、温羅は左目を射抜かれて片目になっていますが、同様に、金屋子神(タタラ・鍛治の神)もまた片目であったと言われています。というのも、村下には穴から釜の火の色を覗いて温度の確認をする任があって、そのために片目が焼け爛れてしまっていたからだそうです。更に、金屋子神は犬に吼えかけられて転倒死しますが、温羅もその首を犬に食われています。共通項が多いですよね。

 金属工芸の神は、片目であるほかに、片足も悪いとよく言われています。タタラ師がタタラ(ふいご)を片足で踏み続けて足が悪くなる、その姿を模したからだ、などと言われます。片目や片足の悪い鍛治工芸神は日本に限らずギリシアや北欧の神話でも見られますので、どうやら世界的なイメージであるようです。私は、これを「半分冥界に属するシャーマン」を意味した表象だと考えています。

 

 さて。視野をやや広げてみると、似たような由来を語る『竈神の由来話』は、日本のほかに中国やベトナムなど、東アジアで数多く見ることが出来ます。夫婦がおり、夫が自ら竈で焼け死ぬか、死んで竈の辺りに埋められるかして、それを妻が祀るという話です。場合によっては妻も竈に入って共に竈神になります。

>>各国の竈神の由来話

 これらの話はまた、「夫婦が離縁し、妻は大金持ちと再婚するが夫は落ちぶれる。後に夫婦は再会し、妻は前夫を哀れんで施しを与える」という共通したストーリーの骨子を持っています。この同じ骨子を持った民話群が、日本には【炭焼長者・再婚型】【産神問答〜男女の福分】として広く伝わっています。これらの話では最後に前夫が死んで竈神として祀られるくだりがないのですが、それ以外の点では全くと言っていいほど同じ話になっています。(この類話は、やはり中国、朝鮮半島などに広く分布しています。)

 「死んで竈神として祀られた」という描写こそないものの、これらの話の類話の多くには、やはり「竈(窯)」と「金」が現れています。妻が再婚した相手は多くの場合"炭焼き"で、炭は窯で作り竈で使うものであると同時に冶金に欠かせない燃料です。そんなことから、【炭焼長者】は「冶金を行って富を手に入れた」ことを意味する、やはり金屋たちに関わる物語であろうと言われているのです。すると、炭焼きの元に幸運を運んでくる妻は、竈の神を奉じるオナリということになるでしょうか。

 面白いのは、これらの民話において「妻に憑いていた福の神の片目を夫が射る」というモチーフが時に見られることです。(【産神問答〜男女の福分】を参照してください。)このために家は没落し、家を出た妻は炭焼きと再婚して沢山の金を発見します。おそらく、片目になった福の神は妻にくっついて炭焼きの元にやってきていたことでしょう。――思い出してください。金屋子神ら鍛治神は、一般に「片目である」と言われていること、釜で予言する神になった温羅は矢で片目を射られていたことを。つまり、妻に憑いていた福の神は、イコール竈の神、金属産業の神であり、金を生産する神と考えられるのです。だからこそ再婚相手の(窯を使って冶金用の燃料を生産する)炭焼きの仕事は栄え、炭焼き窯の周囲に金があふれたのですよね。

 余談になりますが、金屋子神や温羅と同じように、『炭焼長者』の前夫も犬に吠えかけられています。

 以上を総合して考えると、死んだ前夫=金屋子神、生きている今の夫=村下、妻=オナリ ということにでもなるでしょうか。

 

 ここで、話を少し前に戻しましょう。

 金屋たちの間では黒不浄――死体は忌避されません。それは死体が溶鉱を助けるからです。

 民話を見ていると、死体や糞便といった"穢れたもの"が、小判や黄金といった"貴いもの"に変わるエピソードをしばしば目にします。今まで、私はそれを死体化成的な視点から解釈していました。死体や糞便は肥料になり、そこに作物が豊かに育つ。つまり、死体が富に変わる。それを表しているのだと。けれども、ここで今まで述べてきたことを考えると、金属産業的な視点から解釈することも可能なわけですよね。

 日本に【大歳の客】と呼ばれる民話群があります。

 大晦日の夜、みすぼらしい客(乞食、六部)が泊めてくれと頼んでくる。親切に泊めてやるが、翌朝にその客は死んでいた。けれども、後にその死体が黄金に変わり、一家に富をもたらしたのだった。(この後、隣人または兄が真似をして失敗する話が続くこともある)

 この話に対する解釈や説明は色々あって、年神(金霊)が貧しい姿をとって人間を試しに来たのだとか、本当は死体が金に変わったのではなく、家人が客を殺害して金を奪ったのだとか……。

 それはさておいて、類話を見ていくと、客の死因についてはっきり述べられているものがあります。客を囲炉裏にあたらせておいたら中に落ちて、あるいは飛び込んで焼け死んだ、と(熊本、長崎、新潟、青森)。また、死んだ客を囲炉裏の熱灰に埋めると金に変わったとする話もあります(新潟)。これらの話では、金に変わった客は竈神と同じに、自ら火に入って焼け死ぬか、死んだ後に火を使う場所の辺りに埋められているわけですね。

 また、【大歳の客】に似た【大歳の火】という民話群がありますが。

 大晦日の晩、主婦または下女がうっかりして竈の火を消してしまい、新年の火種がなくなる。外に出て、火種と引き換えに死体を預かる。困って死体を隠しておくと、それが黄金に変わっている。

 この話群では、竈の火と引き換えに死体を入手し、それが黄金に変わります。そして火を守り死体を運ぶのは女性です。

 黒不浄と火→竈の神(乞食の姿の客神)→竈の神(火)を祀るオナリ→金を得る というポイントが、これらの話においても示唆されているように思います。

 

 "ひょっとこ"は、竈や窯の火を燃え立たせる神でした。そのこっけいな顔は火を吹いて燃え立たせている姿を模したもの。そんな火焚き男は、社会では下層に位置し、軽んじられる存在でもあります。灰にまみれたシンデレラや、ペチカに座って灰をつついていた怠け男が嘲られていたように。けれども、一方では彼は重要な"火"を自在に操っています。火は家庭の竈で絶えず燃え続ける生命力であり、金物を作り出す文化の力です。火焚き男は観念的にはそれを支配する力を秘めていると言えるのです。

 伝承でしばしば神が乞食の姿をして現れるように、醜く、鼻水や大便を垂れ流し、愚かな、下層の仕事を行う"ひょっとこ"は、実は人々を守護し大きな富を与える、火と工芸の神でもあるのでした。



03/08/31

参考文献
『昔話 伝説の系譜 東アジアの比較説話学』 伊藤清司著 第一書房

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